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創作・この世界の片隅の夕凪の街から

昭和三十年夏。
あれから十年も経っているのに、私は助かったと思っていたのに、今頃になって原爆病で死ぬのか。この十年間、特に自覚症状もなかったのに。
私は普通に進学し、就職し、働いていた。
それが十年後に突然発症し、しかもこんなに急に症状が進むなんて。

十年前のあの日、広島の女学生だった十三歳の私は屍の街を逃げた。迫ってくる火から、夢中で逃げた。気をつけても、途中何度か死体を踏んだ。焼けただれた死体のぬるりとした感触を靴の底に感じたが、どうすることもできなかった。
両腕の皮膚がずるりと剥けて指先から垂れ下がっている人たちがいた。剥けた皮膚が地面につかないようにしているのか、痛いのか、両腕を上げようとするその姿が幽霊のようで、助けたいと思うより、怖い、気持ち悪い、という思いが強くて、なるべく見ないようにして離れた。「水をください」と言っているように聞こえたけれど、聞こえないふりをして逃げた。
兵隊が駐屯していた場所なのか、同じような死体が何体も丸太のように転がっている所に来た。どの死体も真っ黒焦げで顔の区別もつかず、みな裸だった。その裸の黒い死体はどれも同じように軍靴を履いていた。革の靴だけが焼け残り、軍服はみな焼けてしまったのか。
さらに進んだが、どこまで行っても屍の街だ。何かぐにゃっとしたものを踏んで足元を見たら、大きな蛇のようだった。こんな大きな蛇が日本にもいたのか、この蛇は動かないけど死んでいるのかとよく見たら、それは蛇ではなく人間のはらわただった。女の人の腹が大きく裂けて内臓が飛び出ていた。私が踏んでしまったのは、その人の腸だった。
暗くなった街は燃え、助けを求める声、水を求める声が、低く響いていた。私は自分が逃げるのに精一杯で、心の中で「ごめんなさい!」と言いながらひたすら逃げた。
川には数えきれないくらいの人が浮いていた。老若男女、さまざまだった。水を求めて川に来たのだろう。多くはすでに死んでいるようだった。焼けただれた人が多かった。衣服が焦げてぼろぼろだったり、裸だったり。
途中、水道管が破れて水が出ているのを見つけた。顔を洗い、近くに転がっていた鉄カブトを器にして水を飲んだ。「すまないが、私にも水をくれ」と弱々しく声をかける人がいた。ぼろぼろの軍服の兵隊だ。体中、火傷をしている。「のどが焼けるようだ、早く水を」と言う。水の入った鉄カブトを渡そうとしたが、その兵隊は持つ力がない。私は、鉄カブトの縁をその人の口につけて、ゆっくりと水を飲ませた。顔もひどく火傷している。「ああうまい水だ。ありがとう、お姉さん。あんたは学生さんか?」とその人が聞く。「はい、女学校の生徒です」と答えると、「学生さん、頼むから、この仇を討ってくれ。仇を討ってくれ」と言い、間もなくその人は死んだ。水を飲ませたから死んでしまったの? 飲ませないほうがよかったの? でもこの兵隊さんはすごく水を欲しがっていた。うまい水だと言って飲んでくれた。「この仇を討ってくれ」って言われたけれど、どうやって仇を討ったらいいんだ。

結局一人も助けられなかった。途中で兵隊さんに水を飲ませただけ。そしてその人も死んだ。


あのときから十年経った。
多くの死者や重傷者の中を逃げた私は、自分は生きていてよいのか、生きる価値があるのかと思うことがあった。
そういう思いを抱いて生きてきた私は、今、自分が死ぬ番を迎えている。

死ぬ直前て、こんな感じなのか。頭が妙に冴え、いろいろなことが浮かんでくる。特にあの日のことが浮かんでくる。
他の感覚は、もうすっかり麻痺しているみたいで、昨日から目が見えない。今日はもう体も動かない。昨日までは何とか水やお粥をすするくらいはできたのに、今は嚥下も無理みたいだ。
さっきまであんなに体が苦しかったのに、今は体の苦しみを感じない。でも心だけは、あの日のことを思い出すと苦しくなる。

時々どろっとした血の塊を吐いているようだが、もう痛くもないし、血の味も臭いもしない。痛みを感じる神経も、味覚も嗅覚も、みんな失われてしまったのだろう。
五感は殆ど死んでいるのに、頭脳だけが不思議なくらい研ぎ澄まされている。


お母さん、ごめん。先に逝くよ。
顔を焼かれてひどい腫れで目も開けられなかったお母さんより、ずっと軽傷だった私が先に逝くんだね。

伯母さん。わざわざ遠くから来てくださって、ありがとうございます。お借りした学費は少しづつでもお返しするつもりでいたのに、ごめんなさい。私はもうすぐ死にます。

あさひ君もそこにいるんだね。かけがえのない私の弟。生きている唯一のきょうだい。
お父さんも原爆で死んだ。お姉ちゃんも妹も死んだ。私も今、死んでゆく。君はきょうだいの中の唯一の生き残りだ。伯母さん宅にいて原爆に遭わずに済んだ君は、原爆で父親ときょうだいをみな失った証人だ。その悲劇を未来に伝えてほしい。
お母さんのこと、よろしく頼んだよ。

Uさん。私のそばにいてくれてるのね。もう目も見えないし耳もあんまり聞こえないけど気配でわかるよ。あまり近づかないで、私はもう人間襤褸。血が付くよ。
私ね、あなたの奥さんになりたかった。あなたの奥さんになって、ごく普通の、平凡な家庭を持ちたかった。原爆は、そんなささやかな庶民の思いさえ打ち砕いちゃうんだね。
あなたの好意はずっと前から気づいてたけど、私は、ためらってたんだ。ずいぶん多くの人の死を見ちゃったから。私は、たくさんの人を見殺しにして逃げちゃったから。私が幸せになったら、死んでいった人たちに申し訳なくて。
でも、あなたに励まされて、私は生きていていいんだと思えて、あなたと共に生きていこうとしていた矢先に、突然発症して、こんなことになってしまうなんて・・・。
私のこと、忘れないでほしいけど、あなたはあなたで、幸せな人生を生きて。私の思い出に縛られずに幸せな家庭を築いて。お願いだから。


この世界の片隅の、原爆スラムと呼ばれるこの夕凪の街で、私は今、静かに死んでゆく。
原爆を落とした人たちが、もし、ここで私が死んでいくのを知ったら、どう思うんだろう。あまりにも多くの死者の一人に過ぎない私のことなんか、まったく気にも留めないんだろうか? それとも、十年経っても人を殺せるくらい優れた爆弾を落としてやったって思うんだろうか? それとも・・・、数多くの人を殺し、多くの人を傷つけ、人生をめちゃくちゃにしたことに対して、少しでも申し訳なく思う気持ちがあるんだろうか?
心の中で申し訳なく思ったって、「原爆投下が戦争終結を早めたのだ、正しかったのだ」という声の前に黙ってしまうのだろうか・・・。


あれっ。お父さん、お姉ちゃん、みどりちゃんも、どうしてここにいるの? 生きてたの?
そうか。私がそっちの世界に行くのか。だから迎えに来てくれたんだね。
見えない目が見えている。死ぬ瞬間て、こうなるんだ。体が、うんと軽い。ああ、自分が自分から抜け出していく。
こうして上から自分の屍を見るって、何か、とても不思議な感じがする。
体から抜け出した今、すっかり生まれ変わったような感じで、これまで経験したことのない新鮮な気分になっている。
もう誰のことも恨んだり憎んだりする気がしない。

さようなら夕凪の街。さようなら広島。さようならみんな。
今から私は旅立つけど、これからは、あっちの世界からずっとみんなを見守るからね。平和を願って見守るからね。
悲しくなんかないよ。あなたたちから私は見えなくても、私からは見えるよ。
泣かないで。
さようなら。

(伊藤一滴)


原爆の惨状を訴えた方々に、心から敬意を表しつつ。


創作の参考にした主な話

全体の構成と被爆十年後の発症
こうの史代『夕凪の街』

両腕の皮膚が剥けて指先から垂れ下がっていた人たちのこと
中沢啓治『はだしのゲン』、同『はだしのゲンはヒロシマを忘れない』、他

焼けて裸になった兵隊が靴だけ履いていた話
山代巴編『この世界の片隅で』

内臓が飛び出ていた話
多数の証言

川に多くの人が浮いていた話
大田洋子『屍の街』、奥田貞子『空が、赤く、焼けて』、中沢啓治『はだしのゲン』、他多数

水道管が破れて水が出ていた話
大田洋子『屍の街』、他

鉄カブトを器の代わりにした話
中沢啓治『はだしのゲン』

水を飲んで間もなく死んだ人たちの話
大田洋子『屍の街』、奥田貞子『空が、赤く、焼けて』、中沢啓治『はだしのゲン』、他多数

「この仇を討って」と言いながら死んでいった人たちの話
山代巴編『この世界の片隅で』

死の直前のこと
エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と臨死体験』、立花隆『臨死体験』、他


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こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読む
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