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信じ方の問題、そして祈り(野中花子著『私はもう祈らない』を読んで)

聖書を信じて生きてきたせいで生活が破綻してしまったという野中花子氏ですが、彼女の人格に問題があるとか、個人的な問題だとか、私は思いません。福音派と名乗る人たちの中に見られる「原理主義的価値観」に、仕事その他の重圧が加わった問題ではないか思います。
彼女はまさに宗教二世です。幼い頃から母親に植え付けられた原理主義的な価値観を持っていたのです。この母親も娘の野中氏も真面目な人で、原理主義的な価値観やその価値観による行動にも、とても真面目だったのでしょう。
残念なことですが、熱心なクリスチャンと言われる人の中に、それは依存症ではないかと思える人がいます。まるでアルコール依存症のような、神様依存症・聖書依存症・教会依存症・牧師依存症・・・になってしまっているのです。牧師の言葉はもちろん人間の言葉ですが、たとえ、神様、聖書、教会の教えといったものが正しいとしても、それはその人が認識できる範囲内でしか受け取りようがないのです。神様は絶対で、全能で、無誤無謬だとしても、それを知ろうとする人間の側の理解力は絶対ではないし、全能でも無誤無謬でもないのです。神様の御旨(みむね)にしても、聖書のメッセージにしても、ある程度まで行けばあとは人間の解釈であり想像です。受け取り方は、ずれていたり、かなり外れていたりしているかもしれません。人間の考えや人間が想像で作り出したものは絶対にはなりません。そういったものに依存してはいけないのです。それは一種の偶像崇拝です。イエス自身は、何かに依存して生きなさいなんて教えていません。
野中氏は、自分は依存的な信仰ではなかったと言うのですが、聖書の言葉を生活マニュアルのように使っていたわけで、やはり聖書に依存していたのではないかと思います。もっとはっきり言えば、原理主義的な聖書解釈に依存し、また、支配されていたのではないか、と思います。

イエスの教えは、律法主義からの解放の教えです。「律法解釈」は人間が作りだしたものです。人間を縛り束縛してしまう律法主義を、イエスは否定したんです。イエスの主張とパウロの主張はちょっと違うんですが、パウロはパウロで律法主義を否定しました。彼は「文字は殺し霊は生かす」とまで言っています(2コリント3:6)。新約の、どの文書だって、律法主義の教えではありません。
だのに、どうして、聖書の言葉を引用し、人間を縛り束縛してしまう現代の律法主義にしてしまうのでしょう。そういう現代の律法主義者たち(=現代のファリサイ派たち)が、自分たちのことを「私たちは正しい聖書信仰に立つ正統的プロテスタントです」とか「福音主義です」とか「福音的な教会です」とか言ってるんです! (逆は言えません。自分たちを「聖書信仰」と言う人たちの皆が律法主義・ファリサイ主義ではありませんから。)
若い頃の私は、「救われないのは自称「福音派」だけ」と思っていました。


クリスチャンたちの中に、「祈り」についての勘違いもみられます。自分本位の祈りや、現世の御利益(ごりやく)を求める祈りもかなりあるのです。特に、自称「福音派」の人たちの中に。
「私たちの日用のパンを今日も与えてください」だって、現世の御利益と言われそうですが、「私たちの」ですよ、「私の」や「我が家の」じゃありません。
私は、祈りは自分の思いを言葉にすることで自分を客観化する行為だと思っています。つまり、自分は何に感謝し、何を讃え、何を願い、何に向かって進んで行こうとしているのか、自分の本当の願いはどこにあるのか、それを言葉にする行為だと思っているのです。
聖書が書かれた時代、人々は神話的な世界観の中に生きていました。当然、聖書は、神話的な世界観で書かれています。そういう時代でしたから、超自然的な話がたくさん出てきます。それはその時代の表現です。
私は、超自然的な現象をすべて否定するのではありませんが、大原則として、この世界で起こる現象は、自然の法則の範囲内の現象だと思っています。福音書が執筆された時代の人ならば、「人にはできないことも神にはできる」(ルカ18:27)と思ったのでしょうが、実際は、ほとんどのことは、「人にできないことは神にもできない」のです。
もう、超自然的な働きを願うのはやめて、「人にできないことは神にもできないのが原則」と考えたほうがいいと思います。それは、神の否定ではありません。神の働きは人の手を通してなされる、と言うこともできるのです。例をあげれば、私は、殉教的な死を遂げた中村哲先生の活動に、中村先生を動かした神の働きを感じています。その普遍的な理念は、先生の没後も残り、そういう意味で、中村哲先生は永遠の命の人となったと言えるのです。死後の世界が、あっても、なくても。 
聖書学者の田川建三先生は「存在しない神に祈る」とまでおっしゃっていました。神が存在してもしなくとも、祈ることには意味があるというのです(田川建三著『思想的行動への接近』他)。人は、自分が祈る方向に向かって進もうとします。自分はこうありたいとか、世の中はこうあってほしいとか、祈る方向に、人は、現実的に動き出すんです。だから、たとえ神が存在しなくとも祈ることには意味がある、ということになるんです。

死後の世界があってもなくても、神様がいてもいなくても、私は、祈り続けます。

前にも引用しましたが、フランシスコ・ザビエルに帰せられる祈りを再びここに記します。


【十字架上のキリストへの祈り】
主よ 私があなたを愛するのはあなたが天国を約束されたからではありません。あなたにそむかないのは地獄が恐ろしいからではありません。
主よ 私をひきつけるのはあなたご自身です。私の心を揺り動かすのは十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。あなたの傷ついたお体です。あなたの受けられた辱めと死です。
そうです。主よ。あなたの愛が私を揺り動かすのです。ですから たとえ天国がなくても主よ 私はあなたを愛します。たとえ地獄がなくても私はあなたを怖れます。
あなたが何もくださらなくても私はあなたを愛します。望みが何も叶わなくても私の愛は変わることはありません。
(フランシスコ・ザビエル)

これも前に書いたことですが、繰り返します。
天国や地獄があってもなくても、イエス・キリストの愛を感じ、イエス・キリストを愛する。報酬など何も望んでいない、ただキリストを愛する。これこそが信仰の精髄でしょう。
「死んでから天国に行きたいのです。地獄に行きたくありません。だからイエス様を信じます」みたいなクリスチャンが、今も、何と多いことか。それって、「天国に行きたいのです。地獄には行きたくありません。だから免罪符を買います」というのと、何が違うのですか?
(伊藤一滴)

追記:今日(11月18日)知ったのですが、『私はもう祈らない』は、オンデマンド版の紙の本もあるそうです。アマゾンで見たら、一時的な品切れになっていました。

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