誤りなき神の御言葉である聖書の権威?
私は福音派の牧師先生や信者さん方からお世話になってきた。
恩人の信仰を悪くなど言いたくない。
今の私は、〈福音派〉と〈「福音派」を称する原理主義者〉を分けて考えているが、中間的な人たちもいるから、両者をはっきり線引きすることはできない。
以下の文章は、福音派を非難していると受け取られるかもしれない。よく読んでいただければ分かると思うが、以下は非難ではなく、事実と、それに対する私の考えである。実は、こんなことを書くのは心苦しいのだが、自分の思いを偽りたくはない。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか「聖書には権威がある」とか、福音派の人たちはよく言うが、実はどちらも聖書にはっきり書かれた箇所がない。事実だから、疑問なら、コンコルダンスやパソコンの検索機能などで確かめていただきたい。
福音派は「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、聖書のどこにも書かれていないことを言っている。そして、この、「信仰の論拠は聖書のみ」という言葉自体、聖書にない。これも、事実である。
信じるのは自由だが、これらを知った上で信仰しているのだろうか? 牧師なら知っているだろうが、一般信徒はどうなのか?
福音派に限らず、プロテスタントは聖書中心主義を標榜するが、聖書に明確に書かれていないことを信じている。
信じるのなら、そう信じるだけの根拠が必要になる。信仰は科学的な証明が求められるわけではないが、こういう理由でこう信じるという理論的な説明は必要だ。
それができないなら、迷信・妄信・狂信と変わらない。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」
「聖書には権威がある」
「信仰の論拠は聖書のみ」
こうした主張は、どれも、はっきりと聖書に書かれてはいない。これらは聖書の解釈によって導かれた見解であり、広義の「聖伝」ではないかと思う。
「信仰の論拠は聖書のみです。聖伝は一切認めません」などと言いながら、解釈を一種の聖伝として受け継ぎ、信じているのではないか。
よく「根拠」とされるのは新約聖書の2テモテ3:16の「聖書はすべて神の霊感によるものであって、教え、戒め、矯正、義の訓練のために有益です」という箇所だが、この著者にしても「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか「聖書には権威がある」とか「信仰の論拠は聖書のみ」とか、明確に言ってはいない。
それにこの著者は、この箇所の「聖書」とは何を指すのかも明らかにしていない。著者の念頭にあったのは七十人訳かシナゴーグで朗読されていた聖書だろうが、どちらにしても「新約聖書」は含まれていない。
「聖書に明確に書かれていなくとも、聖書それ自体から、聖書は誤りなき神の御言葉であり、聖書には権威があるとわかります」といった主張もあるが、それは循環論法だ。かつて左翼学生らが「マルクス主義の正しさはマルクス・エンゲルスの著作からわかります」と言っていたのと変わらない。
歴史的には、「聖書には権威がある」という主張は古くからあった。聖書の内容や聖書に記されたイエスや使徒たちの姿勢から、総合的判断としてそう信じたのだろう。ただし、これが教義として明確に定められたのは16世紀の宗教改革の時代である。対抗したカトリック教会もトリエント公会議において聖書の権威について明文化した。
また、宗教改革において教皇主義への対抗として「信仰の論拠は聖書のみ」と主張され、受け継がれた。
キリスト教2千年の歴史において、旧新両派が「聖書には権威がある」と明確に定め、また新教徒が「信仰の論拠は聖書のみ」と主張して5百年だ。
聖書から導いた見解だとしても、聖書にはっきり書かれていないこうした主張を聖書の言葉と同じように扱ってよいのだろうか?
「聖書は誤りなき神の御言葉である」と教義として明確に定められたのは比較的新しい。これは、私が知る限り、古代・中世の公式な教義にはない。宗教改革の時代でさえ、ルターはヤコブ書などの聖書の一部の正典性を疑問視していたわけで、聖書のすべてを誤りなき神の御言葉とは考えてはいなかった。
ルターの見解は「部分的霊感説」になるのだろうか? 「だからルターは間違っていました」となるのだろうか。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」という主張はカルヴァンの流れだろうが、そのカルヴァンだって聖書に明記されていない幼児洗礼などを認めている。「だからカルヴァンも間違っていました」となるのだろうか。
ルターは間違っていてカルヴァンも間違っていたなら、「私たちは正しい聖書信仰に立つ教会です」って何?
19世紀末~20世紀初頭、自由主義神学の台頭を危惧した原理主義者(根本主義者)らが「聖書は誤りなき神の御言葉である」と強調し、これが原理主義教会や福音派教会に受け継がれたようだ。「保守」的な人たちによって「聖書は誤りなき神の御言葉である」と強く主張されるようになったのは、キリスト教2千年の歴史の中でここ百年間ほどだ。それでも、まあ、百年の歴史はあるが。
聖書に明確に記されていないこれらの主張は、広義の「聖伝」だと言えるだろう。
どんなに否定しようが、福音派は「福音派の聖伝」を信じている。
リベラル派にも、リベラル派なりの聖伝のようなものがあるのだろう。「福音派の聖伝」と重なる部分もあるだろうし、かつての自由主義神学の流れにあるリベラルな伝統とか、カール・バルトの見解とか、ルドルフ・ブルトマンの見解とか、それぞれに違うが、リベラル派の諸派の聖伝のようなものになっているのかもしれない。
「知性・理性を使い科学を重視して思考せよ」と聖書に書いてあるわけではないが、これもリベラル派の聖伝か。
カトリック教会の場合、信仰の論拠は「聖書と聖伝」だから、当然、聖伝を受け継いで信じる立場である。
ちなみに現代のカトリック教会は、「聖書全体は神の言葉である」とはっきり教えている。
「聖書の著者たちは、聖霊の霊感のもとに神が望まれることを書き記したのであり、その意味で聖書全体は神の言葉である。」(「第二バチカン公会議公文書」啓示憲章(Dei Verbum)第2章「聖書と啓示」第11項)
「聖書には権威がある」という主張もそうだが、これも福音派の見解と合致する。両者共通の「聖伝」である。
どうもカトリック教会は、プロテスタントが先に言っていたことを、あとから聖伝として公認することがあるようだ。それって、パクリだと言われそうだ。カトリック側からすれば、検討の結果正しいとわかったということなのだろうけれど。
聖伝を信じてはいけないとは言わない。
ただ、自分たちも一種の聖伝を信じながら、「信仰の論拠は聖書のみであり、聖伝を信じるのは間違いです」などと言わないでもらいたい。
一般の(原理主義でない)福音派は、今日、対話路線になっている。他派と交流するし、他者の立場に配慮してくれるから、対話が成り立つ。
エキュメニズムの時代である。
福音派は、
「聖書は誤りなき神の御言葉である」
「聖書には権威がある」
といった聖書にはっきり書かれていない主張について、自分たちは何故そう信じるのか、エキュメニュカル派(エキュメニズム派)に、また非キリスト教の人たちに対しても、ていねいに説明する必要があるだろう。
福音派を名乗る人たちは一枚岩ではない。寛容で親切な人も多数おられるが、まるで違う人もいる。福音派を名乗る中に、原理主義寄りの人たちや、明らかな原理主義者・カルトまで混じっている。原理主義者・カルトらは「信仰の論拠は聖書のみなのに、カトリックは聖伝を信じているから間違っている、異端だ」と盛んに攻撃するが、そういう自分たちも一種の聖伝を信じている。
原理主義者・カルトらは自分たちのことを純粋なキリスト教だと思っているのだろうが、その主張は矛盾だらけだ。それを指摘されても、「私たちは正しい聖書信仰に立つので弾圧されています」などと言って、大騒ぎして怒るだけで、自らを省みることなく改めることもない。彼らは「キリスト教とは別の宗教」なのか、「キリスト教の中の腐敗部分」なのか。どちらであれ、早く目を覚ましてもらいたい。
(伊藤一滴)
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