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野原花子『聖書はもういらない』のレビュー

野原花子氏の『聖書はもういらない』を早く読みたいと思いながら、届くのを待っていました。kindle版だとすぐ読めるのでしょうが、できれば、紙の本で、落ち着いてじっくり読みたかったのです。
20日(土)の午後に、郵便配達員さんが山里の家まで持ってきてくれました。まだ雪がだいぶ残る中、ありがたいです。
夕方から一気に読んで、読み終えたら夜中の2時でした。


自分の感想を書く前に、他の方のレビューを紹介します。

アマゾンのレビューから引用します。
こうしたレビューからも、著者が所属していた教会の教派やその教えの輪郭が察せられると思います。


板風氏のレビューから抜粋して引用

抜粋引用開始

5つ星のうち5.0

カルトはエホバの証人や統一教会だけの問題ではないと気づかされる。
2020年12月5日に日本でレビュー済み

聖書信仰派の主張は「聖書は一語一句が誤りのない神の言葉であり、人間はその命令にひたすら服従するのが務めであり、それ以外は滅びの道しかなく、聖書の神を受け入れない人のヒューマニズムや、一般的な善行は、神の前には無価値である」ということである。

著者もまたプロテスタントの信者であり、人生の究極の知恵や規範をすべて聖書に求める聖書信仰者である(引用者注1)。著者の母は、もうすぐキリストが再臨し、自分たちが携挙されることを夢みるほどの人である(引用者注2)。しかしある時著者は精神疾患にかかり、家庭が崩壊し、すべてを失う。子どものころからキリスト教を信じ、高校生の時に洗礼を受け、10分の1献金をするのはもちろん教会のあらゆる仕事に全力をもって尽くした自分と自分の家族が、いったいなぜこんな目に合うのか。つまり「神はいない」ということではないか。そう気づいたとき、社会に対する見方の一切が変わり、いままで非キリスト教的として相手にしなかった人間観が自然なものに思える一方、聖書が何の保証もなしに人間を一方的に縛り付けるものでしかないと気づくのである。

ここで注意すべきは、著者は決して「エホバの証人」や「統一教会」などといった評判の悪いカルトの信者ではないという点である。にもかかわらず、キリスト教に入信していたころの彼女の発想は、エホバなどを盲信している人のそれとなんと似ていることか。聖書など特定の経典や教祖の一言一句を誤りなき言葉として狂信し、世間の良識も科学的真実もそのフィルターでしか見ないという点では瓜二つである。日本では創価に比べ、キリスト教が非難されることは少ないけれど、教えの排他性・異常性というのは福音派を中心にかなり強度のものと気づかされる。

抜粋引用終了

引用者注1:信者であったのです。過去のことです。
引用者注2:携挙(けいきょ)について、また引用ですが、ふみなる氏の言葉から引用します。
「(略)世の終わりの「そのとき」がくると、地上で暮らす敬虔なるクリスチャンらが不思議な力によって一気に空中に引き上げられ、そこで再臨のキリストにお会いする、という現象が携挙だと考えられています。」
「この携挙は地上に残される側からすると、敬虔なるクリスチャンらが一瞬にして消失するように見えるそうです。人体消失や神隠しみたいな。よくわかりませんけれど(何せまだ起こってない、誰も見たことのない現象ですからね!)。」
「もちろんこれは終末に関する、諸説あるうちに一説に過ぎません。ですから必ず患難時代の前にクリスチャンが携挙される! と断言することは誰にもできません。断言する人がいたらそっちの方が問題です。」
出典:https://note.com/fuminaru/n/n44f1a2954c2b(関心のある方はこの出典もぜひお読みください。携挙信仰の問題点が書いてあります。ふみなる氏は「どうも携挙信仰と、イエスが教える神の愛との整合性が取れないような気がします」とおっしゃっていますが、私もそう思います。)


masaki tomita氏のレビューを全文引用

引用開始

5つ星のうち3.0

お疲れ様でした。今後、平和な暮らしが来ることを願います。
2021年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入

マインドコントロールの被害を受け、そこから生還した著者の悲痛な被害届のような書物である。
著者を捕らえ込み、ここまで痛めつけたキリスト教は、文章を読む限り「福音派」と呼ばれるタイプの教会である。そこがこの人の不幸の始まりであると思われる。
キリスト教の中には、聖書の文字面だけ鵜呑みにすることはなく、神の存在さえ批判的に検証するような人々もいる。そして、人間らしい感情や愛を何より大切にする教会もある。
もしそういうタイプのキリスト教とこの方が出会えていたら、この方の人生も変わっていたかもしれないと思う。

引用終了


蓑笠亭主人鋤谷九郎氏のレビューの冒頭を引用

引用開始

5つ星のうち5.0

信仰という陥穽に陥らないために(陥穽(かんせい):落とし穴、わな、引用者)
2021年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入

何とも壮絶な本を読んだものだ。本書は「信仰という陥穽に陥り、文字通り『生き地獄』を見てしまった人の手記」といってよいだろう。著者は元キリスト教徒とのことだが、いかなる宗教においても、「生き地獄」をみる危険性を孕んでいると断言してよいだろう。
 「鰯の頭も信心から」という諺があるが、対象が何であれ、「信じることで救われる」ならば、それはそれでよいことだ。しかし決して忘れてはいけないことは、「信仰とは、あくまでも『鰯の頭を信心することでしかない』ということ」だ。つまり「救われること」とは、その人の「心理現象」であり「物理現象」ではないのだ。

(以下略 引用者)

引用終了


as it is氏のレビューを全文引用

引用開始

5つ星のうち5.0

聖書は指月の指に過ぎません
2021年3月4日に日本でレビュー済み

著者はプロテスタントに所属していた方のようですが、カトリックでも状況は同じでしょう。

沈黙・静寂・従順・謙虚・無私という美名の下に、口封じ・見殺し・素通り・奴隷化・隠蔽・集団いじめが負かり通っています。
多元主義という看板付け替えがされても実態は、ウイクリフ、ヤン・フス、魔女狩り、十字軍の時代から何も変わっていないと思います(引用者注3)。

聖書は真理を指し示す指月の指に過ぎません。聖書を月そのものと錯誤している間は悲劇が繰り返されでしょう。

引用終了

引用者注3:「宗教多元主義(しゅうきょうたげんしゅぎ、英: Religious pluralism)とは、さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想である。」(ウイキペディア)
イギリスのジョン・ヒックが有名。
遠藤周作『深い河』にも多元主義の影響が見られる。


はる氏のレビューを全文引用

引用開始

5つ星のうち2.0

聖書への批判なのでしょうか?
2021年3月8日に日本でレビュー済み

教会の歴史のまとめの部分は分かりやすくまとまっていました。後半の著者の経験に触れる箇所で、大変な経験をしておられることは理解できましたが、それが自分に起こったのは、全て聖書に問題があるからであると結論付けられていることに違和感がありました。歴史的に教会が行(おこな)って来たことに問題があったことは本書の指摘にもあるとおりだと思いますが、それは教会への批判であって聖書への批判としてはズレているように思います。

引用終了(「おこなって」の読み仮名は引用者)


私、一滴もアマゾンにレビューを送りました。「いったい正しいキリスト教信仰とは何なのでしょう」というタイトルです。
内容はこれまでこのブログに書いた話ばかりで、目新しいことは何も書いていません。
数日内に読めるようになるでしょう。

(伊藤一滴)

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