「心の貧しい人々は、幸い」?
今現在の日本語訳の聖書は、聖書協会共同訳が標準になりつつあるようですが、実は、まだこの訳を買っていません。
初版は2018年ですから、いくら何でも誤植の訂正は終わったろうと思いますが、今も買う気にならないのです。
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聖書協会共同訳の欄外にある、引照、注、直訳、別訳など、有益だと思います。逆に言うと、役に立ちそうなのは欄外だけ、と言えます。まあ、欄外を使う目的で買ってもいいんですけれど。それなら古本で十分でしょう。
でも、なんで、「引照・注」なしがスタンダードなのでしょう。新改訳は「引照・注」付きがスタンダードなのに。もっとも新改訳も、2017年版を自分用に1冊買って、少し読んで絶句し、その後は読んでいません。人にも勧めません。書いてある通りに訳すのではなく、翻訳者が信じる教義に合うように強引に訳文を持って行く翻訳思想はどうなんでしょうね。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/12/2017-ee8c.html
以前も書いたのですが、聖書協会共同訳はルカ福音書の召命の箇所まで「人間を捕る漁師」と訳しています。ルカはこの箇所に「漁師」という語を使っていないのに。(ルカ5:10)
ここは、伝えられたイエスの言葉が、伝えられる中でどのように変化したのかを示す重要な箇所の一つです。キリスト教保守派の、たとえばシカゴ声明の、「聖書は原典において無誤である」という主張が誤りである証拠にもなります。原典において原著者によって書き換えられていたのですから。
口語訳も新共同訳も原文にない「漁師」という語を「訳」してますが、誤訳でしょうか、意訳でしょうか。
誤訳なら重大な瑕疵だし、意訳なら、訳者は本当に新約学の専門家なの?って言いたくなります。ここは、他の福音書に合わせて意訳してよいような箇所ではありません。福音派が訳した新改訳だってこの箇所は原文の通りに訳しているのに。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/06/post-7724.html
マタイ福音書の冒頭のことも、以前書きました。(マタイ1:1)
「マタイ福音書」(「マタイ伝」、「マタイによる」)というのは、あとからつけられた題名で、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」
が本来の題名だったと考えられるのです。
最初に系図があるので、それにつられて系図と訳してしまうのでしょうが、「ゲネシスの書」(ビブロス ゲネセオース)を「系図」と訳してしまうと、なんで系図が書物(ビブロス)なのか、わけがわからなくなります。系図が書かれたマタイ1章は「書物」と呼ぶような分量ではないのに。
「ゲネシス」は、「発生、生成」といった意味ですが、「生まれ」「人生」「生来の命」のような意味でも使われますから、おそらく、マタイ福音書は、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの誕生と生涯の書」(私訳)
というような題名だったのでしょう。
書き写される中で、題名が最初の節に入り込んでしまったと考えれば説明がつきます。
1611年に出た英国欽定訳だってここは正確に訳しているのに、いまだに「系図」と訳したのでは、今日までの聖書の研究は一体何だったのかと思えてしまいます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/06/post-0cad.html
日本の新約学の水準はかなり高いと思いますから、訳者たちは正確に訳せばこうなるとわかっているでしょうに。「日本語の聖書翻訳の伝統をふまえて」という圧力に屈したのでしょうか。「聖書の翻訳には翻訳の伝統がある」と言う人たちがいますが、誤訳や不適切な訳の踏襲が翻訳の伝統なのでしょうか。
マタイ福音書の「山上の垂訓」の冒頭も、それこそ伝統的に、不適切に訳されてきた箇所です。(マタイ5:3)
これまでの主な日本語訳から引用します。
(明治元訳)心の貧しき者は福なり天國は即ち其人の有なれば也
(文語訳 大正改訳)幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
(口語訳)こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
(新改訳)心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(共同訳)ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。
(新共同訳)心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(聖書協会共同訳)心の貧しい人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
(「聖書協会共同訳」は持ってないので、立ち読みしたのを記憶で書きました。もし記憶違いがあったらごめんなさい。)
「共同訳」はナイダ理論(動的等価理論)の悪影響がひどかった時代の「訳」だから、これは論外です。ここまで文章を変えてしまったのを訳と呼んでいいのかさえ疑問です。
他は、大正改訳以外はどれも似たような訳になっています。つまり、先行する訳を見ながら訳したのです。
名訳の誉れ高い大正改訳は、さすが、見事ですね。それでも、「心の貧しき者」です。これを「霊に於て貧しき者」とでもすれば、より良かったと思うのですが・・・。
この箇所はギリシャ語を直訳すればこうなります。
「幸い、霊において貧しい人々は。なぜなら天国はその人たちのもの。」(私訳)
最初に、いきなり「幸い」ときます。大正改訳に近いです。
しかも、「幸い」と「霊において貧しい人々」をつなぐ動詞がありません。
動詞がないから時制がわかりません。
主な英訳は、欽定訳の影響なのか、どれも直訳調で、be動詞の現在形を補って受動的に訳したものが多いです。でも、本当に現在形に訳していいのかも、断定できません。
「幸いだ、霊において貧しい人々は」
「幸いだった、霊において貧しい人々は」
「幸いになる、霊において貧しい人々は」
時制がわからないので、解釈のしようで何とでも訳せます。
イエス自身は、実際、どう言ったのでしょう。
想像ですけれど、弱い立場の人に優しかったイエスでしょうから、
「幸いになるべきです! 貧しい人々こそ!」
みたいな感じだったのでしょうか。
貧しい人々が貧困から抜け出せない社会のあり方や権力者の支配に対し、怒りを込めてそう言ったのかもしれません。
ちなみに、戦前、聖書翻訳の主流とは言えない永井直治訳『新契約聖書』は「福なる者は靈に於て貧しき者〔なり〕。」と、ちゃんと訳していました。〔なり〕と括弧でくくり、時制がわからないことも踏まえています。永井先生は一牧師であり、大学の教員のような研究職の人ではなかったのに。教会で牧会の仕事をしながら独力で訳したんですよ。戦前の一牧師が個人でこれほどの訳を出しているのに、戦後の日本の聖書翻訳は一体何だって、言いたくもなるんです。
かなり高い確率で、「霊において」(トー プネウマティ)はマタイの書き加えです。
ルカは「貧しい人々」と、おそらく伝えられた通りに記し、マタイは「霊において」と書き加え、現実の貧困問題ではなく精神的な問題に変えたのでしょう。この箇所も、「聖書は原典において無誤」という主張が誤りである証拠になります。聖書は原典において、原著者の手で改変されたのです。
(「イエス様は何度もお話しになったので『貧しい人々』も『霊において貧しい人々』もどちらも別の時のイエス様の御言葉です。改変などありません」と言う人もいるでしょう。では、イエス様は何回生まれ、何回十字架にかかったのですか? 何回復活したのですか? それぞれ福音書の記述が食い違っています。)
ちなみに「天国はその人たちのも」という「天国」は複数形になっています。古代人は幾層にもなった天を思い浮かべていたのでしょう。「聖書は無誤無謬」なら、天国はいくつもあることになります。天国って、一体いくつあるんでしょう?
マタイ福音書の著者を便宜上マタイと書きますが、おそらく、十二使徒のマタイとは関係のない人物で、イエスに会ったことはなかったのでしょう。
地上で生きたイエスを直接は知らなかったであろうマタイは、一体どんな人たちを思い浮かべて「霊において貧しい人々」と書いたのでしょうか。
それこそ、心の貧しい人々かもしれないし、ただ神により頼む人々かもしれないし、自分の精神的な貧しさを自覚する人々、謙遜な人々だったのかもしれません。他の可能性だってあります。
マタイの本当の意図は、もう、わかりません。いろいろな意味に取れるのです。
一つの可能性に過ぎない一解釈は、欄外に記すならともかく、本文の訳文にすべきではありません。訳として出版されれば、意味が限定された文が固定されてしまいます。訳者は、そうやって、聖書の御言葉の意味を狭めているのです。
読みようによっていろいろな意味に取れるのですから、訳文も、いろいろな意味に取れるように、原文の通りに訳すべきです。
「心の貧しい人々」というのはさまざまな解釈の中の一つに過ぎないのに、この解釈が日本の聖書翻訳の「伝統」になっています。先人がそう訳してしまうと、それが人口に膾炙し、文学作品などにも引用されて、不適切な訳だとわかっていても変えられなくなってしまうようです。
もう、そんな「伝統」はやめにしたらどうでしょう。
「だったら、一滴さん。あんたが訳したら」って言われそうですね。
それは無理です。
能力的に、そして、時間的に。
マタイ1:1を「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの誕生と生涯の書」(私訳)と訳すのに半年くらいかかりました。
「ゲネシスの書」(ビブロス ゲネセオース)を「系図」と訳すのはどう考えてもおかしいと思い、これまでの主な日本語訳と代表的な英訳を見ました。それから、ギリシャ語新約聖書中、変化形も含めて「ゲネシス」が使われている箇所を全部調べました。コンコルダンスという便利なものがあるので、そういうことができます。
新約聖書で「ゲネシス」は、「生まれ」「人生」「生来の命」のような意味で使われています。
これは、イエス・キリストの「生まれ」か「人生」か。
どちらかに絞れないと思うので、両方の意味を込めて、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの誕生と生涯の書」
と訳すのがよいのではないかと思ったのです。「誕生」も生涯に含めて単に「生涯の書」としてもいいのでしょうけれど、イエスというお方がこの地上に生じてくださったわけだから、誕生という言葉も使いたかったのです。「生まれ」と「人生」の両方の意味を込めて「イエス・キリストの生(せい)の書」といった訳も可能かと思います。イエスは、地上に生まれ、生きて、キリストとして活動をした、というのがマタイの主張なのでしょうから。
また、別の可能性として、全然ちがう訳になりますが、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの創世記」
とも訳せるのです。
マタイは、七十人訳聖書の「創世記」を意識して福音書のタイトルにしたのかもしれないからです。これは別訳です。
それと、言うまでもないことですが、「~の子」とあるのを「~の子孫」などと訳す必要はありません。初心者に誤解を与えないようになどと、余計な配慮で意訳すべきではありません。訳文は直訳し、欄外に「子孫という意味」と書いておけばいいだけのことです。
マタイ5:3の「心の貧しい人々」というのも、ずっと私の疑問でした。
これを、
「幸い、霊において貧しい人々は。なぜなら天国はその人たちのもの。」(私訳)
と言えるようになるまで、何年もかかっています。
ですから、私の能力の低さの問題もありますが、聖書のあらゆる可能性を考えれば、私のスピードでは、せいぜい、数か所、例をあげて指摘するくらいで精一杯なのです。とても、新約聖書の全訳なんて無理だし、福音書の全訳だって無理なんです。能力的に、そして、時間的に。
世には、置き換えてよいものと、置き換えてはいけないものがあります。
聖書は、キリスト教の正典であると共に、歴史的な、人類の宝でもあります。この宝を、万人に向けて、未来に向けて、正確に伝えるべきです。
翻訳は他の言語への置き換えであり、置き換えなければ翻訳できないのですが、それは、可能な限り直訳に近い形にすべきでしょう。
かつての永井直治先生や今の田川建三先生はそうなさいました。個人にできることが、聖書協会のような団体だとできなくなってしまうんですね。
聖書翻訳の(悪しき)伝統に縛られず、原語からそのまま訳すべきです。特に、1970年代~80年代の聖書翻訳をひどく悪くしてしまったナイダ理論(動的等価理論)からは完全に脱却すべきです。
ご参考まで。
(伊藤一滴)
地球について参考までに。
https://www.youtube.com/watch?v=wkZHA0GPhMc
投稿: たけ | 2022-11-03 12:36