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聖書協会共同訳を買わなかった理由

聖書協会共同訳の聖書が出たばかりの頃(2018年12月)、山形市内の本屋に行って、手に取って、何箇所か開いてみて、買わずに店を出ました。

聖書協会共同訳をなぜ買わなかったのかと言うと、

理由は、まず、イエスの言葉づかいです。
「~である」はないでしょう。
論文じゃあるまいし、一般の人との会話でそんな言葉づかいをするんでしょうか。イエスが、そんな尊大な、居丈高な話し方をしたんでしょうか。
口語訳、新共同訳、カトリックの訳でも気になっていたのですが、「~である」調の言葉づかいは会話にふさわしくないですね。会話として一番まともなのは、新改訳かな。新改訳(初版)は律法学者やピラトまで丁寧な言葉を使ってますけど。


誤訳の踏襲も続いています。
新約を何箇所か開いてみたら、相変わらずの誤訳の踏襲でした。

マタイ福音書のしょっぱなからビブロス(本、書物)を無視し、ゲネシスを系図と訳して「イエス・キリストの系図」です(マタイ1:1)。さんざん指摘されているのに。
欄外に、別訳「創成の書」なんて書いてあります。田川建三さんの苦心の訳が「創成の書」ですが、田川さんの許可をもらったのかな?

「ゲネシス(発生、生成、成り立ち)の書」を、どう訳すかは難しいのです。

ボウフラじゃあるまいし「発生」ではあまりにも変な感じなのですが、すみません、他に適当な日本語が思いつきません。

この箇所は、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの発生の書」なのか、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストによる(新しい世界の)発生の書」なのか、
どちらもなのか。

ゲネシスを、創生と訳せば、イエスの発生になるし、創世と訳せば新しい世界の発生になります。「創成の書」と訳せばどちらにも取れるので、これは名訳かもしれません。
おそらく「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」というのが、マタイ福音書のもともとの題名だったのでしょう。書き写される中で題名が本文の最初の節に入ってしまい、あとから「マタイ伝」(マタイによる)と呼ばれるようになったのでしょう。マタイ福音書の全体が「系図の書」ではありません。最初に系図があるからと「書」を無視してつじつまを合わせをするような訳し方は感心しません。

マタイ5章の山上の垂訓、これも、相変わらず「心の貧しい人たち」?
さんざん誤訳だって言われているのに。
直訳すれば、
「幸い。霊において貧しい人たち。なぜなら天の国はその人たちのもの」
のようになりますが、なんでこれが「心の貧しい人たち」になっちゃうんでしょう?
ここは霊(プネウマ)です。霊において貧しい人たちなのです。

「霊において貧しい」って、どういうことでしょう? 神の前にへりくだることかもしれないし、自分の霊的な貧しさを自覚すること、謙虚になることかもしれません。いろいろな意味に取れるのですから、訳文もいろいろな意味に取れるよう、そのまま訳すべきでしょう。訳で解釈を一つに固定すべきではありません。
「霊的に貧しい」と訳すならまだともかく「心の貧しい」では意味がだいぶ違います。
欄外に、直訳「霊において貧しい」って書いてあります。訳者たちはわかっているのに、なんでその通り訳さないんでしょう。やはり誤訳の踏襲ですか。


極めつけはルカ福音書のペトロの召命の箇所です(ルカ5:10)。またも「漁師」です。だから、漁師なんて単語はこの箇所にないんだってば。これも欄外にかなり正確な訳が書いてあります。わかっているのにここも先輩たちの誤訳の踏襲ですか。
「「人間を捕る漁師」は誤訳ではなく意訳です」って言いたいのでしょうか? 「以前の訳も誤訳ではなく意訳でした」って。そうやって、口語訳や新共同訳を訳した先輩たちの誤訳までごまかす?
そんな、隠蔽工作みたいな訳が、聖書にふさわしい訳ですか? 新改訳はちゃんと訳しているのに。

ここは、イエスの言葉の伝承の変遷に関わる重要な箇所でしょう。
イエスは実際に「人間を捕る漁師」みたいな発言をして、それが伝えられていたのかもしれません。だのにルカは、漁師が魚を捕ったら魚は死んでしまうと思い(あるいは人からそう言われ)、マルコ福音書の記述を書き換えた可能性が高いのです。伝えられたイエスの言葉がどのように変わっていったのかを示す重要な箇所ではありませんか。福音書は、それこそ「原典において」すでに書き換えられていたと考えられるのです。それを他の福音書に合うよう「意訳」しちゃっていいの?

聖書協会共同訳を閉じて本棚に戻し、買わずに店を出ました。

あれから、まだ、買っていません。
今後も買わないというのではありません。また考えます。
欄外の「直訳」や「別訳」、参照箇所などは役に立ちそうです。
むしろ、欄外の「直訳」や「別訳」を本文に使ってほしかったと思います。

後になって、アマゾンのレビューや他のネットの記事を見たら、聖書協会共同訳の初版は誤植がやたら多いとわかりました。買わなくてよかった。重版の際に訂正されるでしょうから、本屋に並ぶ聖書協会共同訳がみな訂正版になった頃にまた考えます。

それにしても、初版の誤植はひどい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/27195/20190906/japan-bible-society-interconfessional-version-corrections.htm

モルデカイの名がモデルデカイになっているとは・・・・。おそらく植字担当者(入力担当者)はクリスチャンではなく、モルデカイの名を知らなかったのでしょう。コストダウンを優先し、聖書に何が書いてあるのか知らない人に植字(入力)させ、AIに振り仮名を振らせたのではないのですか。そして、クリスマスに間に合わせようと(つまりクリスマスプレゼント用に買ってもらおうと)、十分な校正を経ないまま発行を急いだのではないのですか。
日本聖書協会さん、恥ずかしいですよ。

大型の辞書の新発売もそうですが、新しい聖書も「販売記念特価」で初版が安い理由がわかりました。「安くしたんだから誤植があっても文句を言うな」ということなんですね。


これから聖書協会共同訳をお買いになる方へ。
古書店やネットで初版第1刷が安く売られていたとしても、おすすめしません。誤植だらけです。
「引照・注付き」をおすすめします。訳文は誤訳の踏襲が続いていますが、引照と注は、ちょっと立ち読みしただけでも見事だと思いました。欄外の「直訳」や「別訳」を本文に使っていたら、きっと名訳となっていたことでしょう。今後30年はこの訳を使おうなんて頑張らないで、欄外の「直訳」や「別訳」を本文の訳と差し替えた改訂版を早めに出した方がいいんじゃないですか? そして、改訂版はイエスの発言をもっと丁寧な言葉づかいに直した方がいいでしょう。引照や注の組み方は新改訳聖書をまねてるんだから、イエスの言葉づかいもまねればよかったのに。
なお、どうせ買うなら「旧約聖書続編付き」をおすすめします。新改訳に続編付きはありません(ありえません)。クリスチャンの方の場合は、所属教会が続編付きを許せばですが。


30年以上前の話ですが、新共同訳聖書が出たときは、私はすぐに初版第1刷を買い、後から誤植だらけと知りました。けっこう読みましたが、自分で読んでも誤植に気づきませんでした。膨大な旧新約聖書全体に、百箇所、2百箇所くらいの誤植があっても気づかないものですね。

(伊藤一滴)

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