なんでギリシャ語の新約聖書をそのまま訳さないんだろう
前回書いたルカ5:10のように、「漁師」なんて言葉はその箇所にないのに「訳」してしまう人たちがいます。書いてないことを、無意識に聖書の他の箇所から「訳」してしまったと考えられます(※1)。過去の翻訳と比べてみるだけでも訳文のチェックになると思うのですが、見逃したのでしょう。
存在しない語を勝手に補ってしまう誤訳に対し、存在している語を無視して訳してしまう誤訳もあります。
一例ですが、ほとんどの日本語訳聖書で無視されている語がマタイ1:1にあります。
私が新約ギリシャ語を学び始めた頃、マタイ福音書の冒頭を見て驚きました。いきなりビブロス(本、書物)で始まるんです。手元にある日本語訳の新約聖書を片っ端から開いてみましたが、永井直治訳と田川建三訳以外、みんなビブロスを無視して訳してました。そして、田川氏以外みんな「イエス・キリストの系図」と訳してました。たしかにマタイ福音書は系図で始まりますが、マタイの全体が「系図の本」ではありません。「本」を無視すれば意味は通りますが、意味を通すために書いてある単語を無視していいのでしょうか?
英訳は?と思って見たら、たいてい、The book of … と、ちゃんと「~の本」を無視せずに訳してます。
マタイ福音書1:1は、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」
です。
系図から始まるのでそれにつられるのでしょうが、「ゲネシスの書」を「系図」と訳すからおかしくなるんです。田川さんは「創成の書」と訳しておられました。七十人訳「創世記」を意識して「創成の書」と訳されたのでしょうか。
ゲネシスは、発生とか生成とか、そういうことなのでしょうけれど、文脈によって誕生と訳されることもあります。誕生もたしかに発生ですけどね。
おそらく「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」というのがマタイ福音書の本来の題名だったのでしょう。書き写される中で、いつの間にか題名が本文の冒頭に入ってしまい、どういういきさつがあったのかはわかりませんが、使徒マタイと結び付けられ、「マタイ伝」(「マタイによる」)と呼ばれるようになったのでしょう。「マルコ伝」や「ルカ伝」があるんだから、こっちは「マタイ伝」にしておこうか、くらいの感じだったのでしょうか。(※2)
欽定訳がマタイ1:1を正確に訳してました。
The book of the generation of Jesus Christ,the son of David, the son of Abraham.
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのジェネレイション(発生、生成)の書」
( the generation は、世代じゃないですよ! 発生、生成です。)
翻訳は、新しければよいというものではありません。前回引用した明治元訳もそうですが、今の訳と昔の訳が違っているとき、昔の訳の方が正確という場合もあります。
昔の訳もふまえた上で、ギリシャ語の新約聖書をそのまま、正確に訳してくれればいいのに。なんでみんなそのまま訳さないんでしょう(田川建三氏は例外)。
先入観もそうですが、伝統的誤訳も、なかなか越えられないようです。「聖書翻訳には翻訳の伝統がある」なんて言う人もいますが、誤訳を踏襲するのも伝統でしょうか。誤訳は受け継ぎながら、古い訳が正確に訳しているのを踏襲しないのは何故?
マタイ1:1で「ゲネシスの書」を「系図」と訳したのは、伝統的誤訳の一つです。
(ビブロス(本、書物)と書いてあるのに無視したとか、「系図」と訳したとか、それで福音書のメッセージが大きく変わるわけではありませんが、多くの人は特定の一つの言語の訳で読んでいます。可能な限り正確に訳してほしいと思います。)
(伊藤一滴)
※1 無意識の誤訳はともかく、「信仰的にはこうです」とか「わかりやすく意訳すればこうです」とか言って、訳文を曲げる人たちがいます。これはわざとですから、聖書に書いてあることよりも自分の考えを上に置いて原文を曲げるわけで、聖書に対する冒涜です。聖書の「訳」を、その人やその人が属する団体の信仰(信仰という名の先入観や独自の理解)の表明にするのです。それは、訳ではなく、聖書の書き換えです。意訳の範囲を越えています。自分(たち)の解釈に都合のよい作文、自分(たち)の解釈による新たな聖典の制作です。「〇〇派の聖書注解」として出すならまだしも、聖書の訳としては、してはいけない行為です。
私は、「信仰的に」訳文を曲げる人たちや「わかりやすく」訳文を曲げる人たちに誠実さを感じません。
聖書翻訳の名のもとに聖書風の新たな聖典を作り、聖書と称するのですから、だましです。知らない人は聖書だと思って読むかもしれません。イエス自身やイエスに従った人たちの誠実さと反対です。
※2 古代の新約写本は大文字で書かれ、改行もなく単語と単語の間の空白さえありません。第何章・第何節という区切りも、中世~近世のもので、古代の写本にはありません。古代にはプロの写本家(聖書を書き写す専任の修道士)もいませんでした。識字率が低かった時代、読み書きのできる一部のクリスチャンがボランティアで書き写したのかもしれません。写本筆記のプロではないので、当然、写し間違いも多いのです。
マタイ1:1は、かなり古い段階で、題名が本文に混じったと考えられます。
「マタイ福音書の著者は使徒マタイです」
と頑張る人たちがいます。保守的な福音派や、「福音派」と自称するカルト思考原理主義者たちです。
私が、
「教育を受けていない一人のガリラヤ人が書いた文章とは思えませんよ」
と言っても、
「人にはできないことも神にはできます。マタイは神の霊感を受けて福音書を書いたのです」
と言い張って頑張るんです。
「あなた方の論拠は聖書のみですよね。聖書のどこに使徒マタイが福音書を書いたと書いてあるんですか?」
と聞くと、
「聖書に書いてなくとも、信頼できる伝承がマタイの著作であることを伝えています」って。
えっ、論拠は聖書のみじゃなかったの!
伝承を論拠にするカトリックを厳しく非難しながら、自分たちも伝承が論拠?
そのような二重基準の論法はおかしいと思わないのですか?
「カトリックは伝承を論拠にして聖書のどこにも書かれていないことを言っているから間違っている。我々も伝承を論拠にして聖書のどこにも書かれていないことを言うが、それは正しい」ということですか?
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