« 「心の貧しい人々は、幸い」? | メイン | 『エヴァンジェリカルズ』(キリスト教の「福音派」と「原理主義者」の違い)(再掲) »

義人はいない? 一人もいない?(再掲)

「義人はいない、一人もいない」(ロマ3:10)というのは有名な聖書の言葉です。
特に自称「福音派」の人たちが好んでこの言葉を引用します。

「『義人はいない、一人もいない』と聖書に書いてあるとおり、すべての人は滅ぶべき罪人(つみびと)です。しかし、イエス様の十字架の贖いにより、イエス様を信じる人だけは、罪を赦されて天国に行くことができます。それ以外の人はみな永遠の地獄で永遠に焼かれるのです」
といった感じです。

要するに、自称「福音派」の脅し文句の定番に使われる箇所の1つです。


パウロは、七十人訳ギリシャ語聖書の詩篇から引用して「義人はいない、一人もいない」と書きました。私はヘブライ語の知識がないのでヘブライ語原典を参照してはいませんが、ヘブライ語から日本語や英語に翻訳された旧約聖書を見ると、どうもマソラ本文の詩篇とはニュアンスが違うようです。パウロの頭の中にあった「聖書」とは、ヘブライ語ではなく、ニュアンスの異なる七十人訳だったのでしょう。


パウロがローマ書に書いた「義人」の原語はギリシャ語の δίκαιος です。
(日本語に訳すと「義人」と名詞のようになりますが、δίκαιος は形容詞です。)


本当に義人(δίκαιος)は一人もいないのでしょうか?
聖書の著者はみな一致して「義人はいない」と言っているのでしょうか?

聖書に使われている単語を検索するコンコルダンスという便利なものがあります。コンコルダンスで δίκαιος という語を調べると、この単語は福音書や使徒行伝にも出てくることがわかります。


福音書と使徒行伝で δίκαιος という語が使われている箇所をギリシャ語新約聖書から訳して引用するとこうなります。

「さて、彼女の夫ヨセフは義人で、そして彼女を公にさらすことを望まず、秘かに去らせようとした」(マタイ1:19)

「そして見よ、エルサレムにシメオンという名の人がいた。そしてこの人は義人で、敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望んでおり、そして聖霊が彼の上にあった」(ルカ2:25)

「まことにこの人は義人であった」(ルカ23:47)

「そして見よ、ヨセフという名の人がいた。議員の人で、善良で、義人であった」(ルカ23:50)

「すると彼らは言った、『百人隊長のコルネリオは義人で神を畏れる人だとユダヤの全国民から証しされていますが、~』」(使徒10:22)


義人はいない? 一人もいない?

何人もいるじゃないですか。
まあ、ルカ23:47の「この人」はイエスのことだからこれは別としても、他に何人もいます。

福音書と使徒行伝によれば、
イエスの他に、
マリアの夫ヨセフ、
エルサレムのシメオン、
議員のヨセフ、
百人隊長コルネリオも、
みな義人です。

「義人はいない、一人もいない」との整合性はどうなるんでしょう?

同じ δίκαιος を、パウロの書簡では「義人」と訳し、福音書や使徒行伝では「正しい」人と訳して別な語のように見せる翻訳上の細工はどうなんでしょうね。訳語を統一すると、何か不都合が生じるんでしょうか。


マタイもルカも、「義人はいない、一人もいない」なんて思っていなかったのでしょう。

義人についての聖書の証言は一致していません。

マタイとルカにはそれぞれの考えがあってそれぞれに福音書を書いたのでしょうが、「義人の存在を否定していない」(つまり、「義人はいない」なんて思っていない)という点では両者は一致しています。


「聖書の教えに従えば、義人は一人もいません」なんて言えないんです!

たとえパウロがそう言っても、別な箇所に義人が何人も出てくるのですから!

聖書の記述には、出来事の不一致、引用の不一致だけでなく、それぞれの著者の考え方に食い違いが見られます。中には、かなり大きな食い違いもあります。

聖書に見られる種々の見解の中から一部の言葉を引っ張り出して人を脅す人たちがいますが、別な箇所には別なことが書いてあります。

国法の頂点に憲法があるように、キリスト教にとっての聖書の頂点はイエスの教えです。パウロの見解から見てどうかとか、カルヴァンの著書にこう書いてあるとか、そういったことが聖書の頂点ではありません。まして、特定教派の牧師の見解が頂点にはなりません。
イエスが人々に伝えようとしたメッセージに合致しない脅しの解釈は、人間が作りだした脅しです。

パウロは、「義人はいない、一人もいない」という言葉で人々を脅す意図などなく、自分を省みて、あるべき信仰の姿勢としてそう言ったのでしょう。

聖書の一部を引用して恐怖心を与えて人を脅すのは、イエスに従う者にふさわしいこととは思えません。

「『義人はいない、一人もいない』と聖書に書いてあるとおり、すべての人は滅ぶべき罪人(つみびと)です。十字架の贖いを信じない人はみな地獄で永遠に焼かれるのです」と脅されたら、「義人はいますよ、何人もいますよ、聖書に書いてあるのを知らないんですか?」って、言い返してやりましょう。

(伊藤一滴)


付記

天下の田川建三先生でさえ、δίκαιος の訳語を統一していません。何かお考えがあってのことなのか、それとも単に不注意で不統一になったのか、わかりませんが。

永井直治先生の『新契約聖書』は、漢字の「義」を使って統一し、たとえば「義しき人」のように訳しておられます。さすが、永井先生。可能な限り訳語を統一なさったようです。(永井直治訳『新契約聖書』は電子化されてインターネット上に公開されており、無料で読めます。ただし、永井訳はステファヌス第三版からの訳ですから、ネストレとは読みの異なる箇所があります。)

数種の英訳を見ましたが、英訳は、just(名、形)または righteous(形)という訳語が多いようです。比較的原典に忠実と言われるNRSVも、righteous の他に innocent や upright が使われていて不統一です。
福音派のNIV(新国際版)が righteous で統一してました。やりますね、福音派。

英語だと、主語+be動詞+形容詞にできますが、日本語の場合、文脈によっては形容詞を名詞のように訳したほうが自然な文になることがあります。ロマ3:10は以前から「義人」と訳されているのでこれに合わせました。「夫ヨセフは義(ただ)しく、」「この人(シメオン)は義しく、」といった訳も可能です。ロマ3:10も、「義しい存在はない、一人もない」のように形容詞を形容詞として訳すこともできるのでしょうが、従来どおり「義人」とした方が自然なので、そうしました。

2021-11-08 記 再掲

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。