聖書を読み続けて50年
私が聖書に出会ったのは1973年、小学校の3年生でした。ちょうど家の新築工事をやっていた時で、その年に聖書をもらって読み始めたんで、間違いなくその年です。
それから50年、いろいろな訳の聖書を読み続けました。
50年も読み続ければ、その間に学んだことや気づいたこともいろいろあります。
各派の聖書関係者(多くはクリスチャン)との出会いや対話もありました。
学生時代には、「正しい聖書信仰に立つ」という自称「福音派」や自称「純粋なキリスト教」の人たちから、しつこくからまれて嫌な目にあったこともありました。
全員ではありませんが、聖書信仰を名乗る人たちの中に、キリスト教というより聖書教のような人たちがいました。
聖書に書いてあるかどうかが何より大事で、聖書の文字づらから信仰や行動をマニュアル化しようとする人たちでした。それは、まさに、現代の律法主義なのに。
聖書の解釈はさまざまで、聖書を引用して逆のことが言えることも多数あります。「純粋に聖書を信じる」というのは、つまり、自分が属する教派の見解や牧師の見解を無批判に信じ込む、ということなのです。聖書は絶対と言っても、聖書を絶対視しているというより、教派や牧師の見解を絶対だと思い込んでいるだけなんです。
もし、無誤の聖書を正しく信じることが可能なら、どの教派も、どの牧師も、同じことを言うはずなのに、そうじゃないですね。福音派とリベラルの対立どころか、ある福音派と別の福音派が対立しています。こっちの福音派が正しくて、あっちの福音派が間違いなのか。逆なのか。いったい、誰が、何の権限で、正誤を決められるのでしょう。
「聖霊の導きによって正しいとわかります」って言う人もいますが、じゃあ何で解釈が違い、対立が起きるんでしょうか。聖霊はあっちの教会とこっちの教会を別々に導くんでしょうか。
「神様は絶対に正しい」と仮定しても、「神様を信じる人間も絶対に正しい」とはなりません。誰も絶対的な正しさに到達できないのですから、聖書のすべてを絶対的に正しく読むなんてできないんです。
「無誤の聖書を正しく信じています」っていうのは、つまり、マインドコントロールなんです。
マインドコントロールの手口を使うのが原理主義やカルトなんです。指摘しても、認めず、自分で自分をマインドコントロールするようなことまでして、ますますハマってしまう人たちがいます。
信じる喜びなんて、ないんです。カルト思考に心を占領され、支配されていますから。
神の愛に満たされているんじゃなくて、愛とはまるで異質なものに心が占領されているんです。
顔つきも変わってきます。特に目つきが、異様に光るんです。希望に満ちて目が輝いているのではありません。何かに憑りつかれて自分を失ったような、焦点が定まらないような、キラキラの異様な目つきです。
そういう目の人たちを、見ましたよ。統一協会、「福音派」の一部、エホバの証人、左翼セクトの活動家・・・。
そうです、あの目です。話をしても、まるで対話にならない人たちの、あの目。
マインドコントロール下にある人の顔つきって、似てきます。特に、あのキラキラの目つきが。
イエスは、神を父と呼びました。人間の父親だって、ふつう、我が子を脅したりしないのに、罪、悪魔、終末、裁き、地獄などの恐怖で人を脅す神様は、イエスが教えた神様でしょうか? 信者を脅す教会の牧師は、本当に御言葉を取り次いでいるのでしょうか? そもそもそういう教会は、教えを受け継ぐキリスト教の教会なんでしょうか?
神様って、人間の自由意志を奪うんですか?
人を教会や牧師が操るロボットのようにしてしまうんですか?
人間がロボットのようなものなら、神様は何のために人間を創造したのでしょう。
人生の中で、神様が、あれかこれかの選択を迫っていると思えることもあるでしょう。私だって人生は決断の連続だと思います。でも、それ、その人に委ねられた判断なんです。最初からマニュアルがあるんじゃないんです。
イエスの教えは、規則や禁止事項で人をがんじがらめにするような教えじゃないんです。
1983年でした。予備校生だった19歳の私は、仙台市内の福音派の教会で教えを受けていました。福音派を選んでそこに行ったのではなく、たまたま行ったら福音派の教会だったのです。
危険な「教会」もありますから、適当に行くのはお勧めしませんが、当時はインターネットなんてなかったし、キリスト教に詳しい知り合いもいませんでした。
当時だってラジオ放送FEBCはあり、FEBCに手紙を書いて仙台市内の教会をいくつか紹介してもらっていたのですが、なぜか、紹介された教会ではなくて、たまたま見かけた教会に引き寄せられるように入って行ったのです。
もし、本当に神様がおられ、本当に霊的な働きがあるのなら、私は導かれたのかもしれません。
親ガチャじゃないけれど、教会ガチャみたいに、私はガチャを当てました。
私は、その教会の勉強会に通うようになりました。
教会の牧師先生は、よく、こうおっしゃいました。
「伊藤さん、これについてあなたはどう思いますか?」「伊藤さん、生きてゆく中で何か判断に迷うことがあれば、最終的には福音の光に照らして自分で判断するのが大事です」「世の中には簡単に答えを出せないことがたくさんあるのだから、祈りながら、どうすべきか道を求めるのですよ」「こういう状況の時はこうみたいな、そんな安直なマニュアルはありません。聖書はそういう虎の巻ではないのです。今、聖書の時代になかったものが世の中にはたくさんあります。決断しないといけないときは、福音の光に照らして自分で判断することが大事なのです」
牧師先生は、最終的には「福音の光に照らして」自分で判断すべきなのだと、私に教えてくださいました。あの牧師先生は、今も、私の心の中で先生です。私はあの先生から学んだ者であることを今も誇りに思っています。
あの教会には、理性的で穏健で善良な人がたくさんいました。
〇〇派だからと、教派名だけでレッテル貼りをすべきではありません。どういう牧師・信者がそこにいるのかなんです。
本当の宗教は、本質を押さえた上で、あとはその人の判断を尊重するんです。自由意志を尊重するんです。何でもかんでも先に答えがあって、その答えになるよう誘導したりしません。
私が、
「遠藤周作氏の著書についてどう思いますか。たとえば『イエスの生涯』とか『キリストの誕生』とか」
ってお聞きしたときも、牧師先生は、
「遠藤周作先生と私は考えに違いがありますが、遠藤先生は誠実に神様を信じて、ご自分のやり方で証しをしておられるのでしょう」
とおっしゃって、否定的なことは言いませんでした。
信者さんの中に、「教派を超えた集まりに行ってカトリックの人たちと一緒にお祈りしてきました」という人がいましたが、
「今はそういう時代なのですね。多くの方と良い交わりをなさってください」
とおっしゃり、他派との交流についても、否定的なことは言いませんでした。
カトリック、リベラル派、無教会、他宗教、他の誰のことも悪く言わない人でした。
本質を押さえた本当の宗教に、言ってはいけないタブーなんてないんです。この教会で遠藤周作氏の話はタブーだとか、他教派の話はタブーだとか、カトリックの人と一緒にお祈りしたことはタブーだとか、性に関する話はタブーだとか、そんなタブーはないんです。
その頃私は、山形孝夫著『治癒神イエスの誕生』(のちに『聖書の奇跡物語』と改題)とか、同著『レバノンの白い山』とか、ブルトマン著「共観福音書の研究」(山形孝夫訳『聖書の伝承と様式』所収)とか、読んでいたので、リベラルと福音派の間にいたような感じです。
くもりガラスの向こうに、ぼんやりと見えるようなイエスを感じ、イエスに従いたいという思いで、福音派の教会で学びながら、心のどこかはややリベラル寄りだったのでしょう。
もし、私が仙台市内の大学に進み、そのままその教会に通っていたならば、私はそこで福音派のクリスチャンになっていたのかもしれません。「リベラルな見解もあるけれどそれはそれ、私は福音派を選ぶ」、というふうに。
でも、運命はそうさせませんでした。あるいは、神様がそうさせなかったのか。
愛知県内の大学に進んだ私は、はっきりとリベラル化し、福音派とは距離を置くようになりました。(交際を絶ったのではありません。新改訳聖書やいのちのことば社の本だって使っています。福音派の一員にはならないという意味で距離を置いたのです。)
親切にしてくださった仙台の牧師先生や信者さん方には申し訳ないのですが、自分の思いを偽るわけにはいきませんでした。
私の急速なリベラル化は、かつての自由主義神学やブルトマンやその後の方々の見解の影響もありますが、大学の学内で、「正しい聖書信仰に立つ」という自称「福音派」や自称「純粋なキリスト教」の人たちから取り囲まれて詰問され、ひじょうに嫌な目にあった影響も、かなりあります。福音派の信仰は、道を誤るとこんな風になってしまうのかと思い、反論のためもあってさらに聖書を学びました。その結果、私は急速にリベラル化したのです。
今も、田川建三先生の著書を読みながら、「田川先生はずいぶん保守的なことをおっしゃるなあ」と思うことがあります。田川建三先生の見解が保守的に思えるくらい、私の聖書の読み方は左派になってます。
原理主義やカルトも「福音派」と自称しますが、彼らの宗教は、最初から答えがあって、個人の判断を許しません。そして、何でもそれが善なのか悪なのか、価値があるのか無価値なのか、救いなのか滅びなのかみたいに、2つに分けようとする二元論、二分法なのです。あれかこれかと2つに分けて、自分たちは正しい側にいると思い込むんです。
この世界は白か黒かの碁石が置かれた碁盤じゃありません。碁石なら、白でなければ黒、黒でなければ白ですが、現実の世界には判別が難しいものや中間的なものがたくさんあるんです。どちらか2つに1つというのはわかりやすいんですけれど、そのわかりやすさで、2つに分けられないものを無理に分けてしまってはいけないんです。
そうした二元論の思考になってしまうと、何でも正か誤かに分けようとして、自分は正の側、救いの側だと思って、この正しい教えを伝道しないといけないという使命感に燃えるんです。でも、それって、単に、特定教派の特定牧師から植え付けられたイデオロギーですから、そこに客観性も普遍性もないんです。
真面目な人がからめとられてしまって、指摘しても、気づきません。自分の信仰を否定されたと思うのか、火がついたみたいになって怒るだけです。私は、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
マインドコントロールされ、それが進んでしまうと、説得は難しいようです。
学生時代にそういう自称「福音派」からさんざん詰問されたんで、やがて彼らの思考回路や論法や行動がわかるようになりました。それはイエスの教えとはまるで違います。
「救い」か「滅び」か2つに1つみたいな、二分法の思考から離れると、楽なのに。
この教会から離れたら、滅びる、地獄に行く、永遠に焼かれる、みたいに考えていたら、恐怖による縛りで離れられなくなって、心の平安なんてないです。
心に平安のない信仰って、イエスが教えた信仰ですか? あるべき信仰ですか?
キリスト教の否定ではありません。カルト思考では駄目なんです。自称「福音派」の原理主義やカルトのイデオロギーに支配される生き方では、自分の人生を生きることができなくなるのです。
福音派の中にも、その人の判断や自由意志を尊重してくれる教会があります。仙台で私が通った教会がそうでした。
プロテスタント主流派にも、無教会にも、カトリックにも、素敵な人がたくさんいます。もちろん他宗教や無宗教の人にも。
ある種のイデオロギーの縛りから出ると、外には、イエスの教えに適う素晴らしいものが沢山あるんです。
縛りの中にいる人たちに、外の世界の素晴らしさに気づいてほしいと思うのです。
「で、一滴さんはクリスチャンなんですか?」って、また聞かれそうですが、それは「キリスト教」をどう定義するかです。
もし「私はクリスチャンです」と言えば、ある人たちから「クリスチャンなのにどうして聖書を批判するのか」って叱られるだろうし、「私はクリスチャンではありません」と言えば、「非クリスチャンなのにどうして聖書についてあれこれ言うのか」って叱られるでしょう。どっちみち、ある種の人からは叱られるんです。
ある種の人たちは、どんなに筋を通して話をしても通じません。信仰どうこうの話は相手を見てからにします。彼らは「自由主義神学の影響を受けた間違ったキリスト教は、非キリスト教より悪い」と思っているようですから。(でも、まあ、中には気づいて目を覚ます人もいるかもしれませんから、諦めてはいませんが。)
以前、無教会の人たちにお会いする機会があって、このブログに書いているような話をしたら、当然のように、私はクリスチャンとして扱われました。全員ではないかもしれませんが、寛容な無教会の人から見ると、私はクリスチャンということになるようです。
(伊藤一滴)
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