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聖書カルト2

聖書カルトの人たちは、聖書の御言葉の原理主義的な解釈に支配され、また、人を支配し、コントロールしようとします。彼らは自分たちの「正しさ」を確信しており、疑問を感じたら負けのようです。他者と対話し、考えを深めることもありません。だって自分たちは「正しさ」の中にいて「間違いない」のですから、対話の余地などないのです。

聖書の御言葉が、人に大きな影響を与えることがあります。その多くはいい影響です。私は、聖書を学んで劇的に回心した人や、良い働きをした人を何人も知っています。でも、中には、聖書の言葉を狂信的に信じ込んで、不寛容、排他的、独善的、攻撃的になってゆく人たちがいます。

彼らの「教会」や「団体」では、内部の結束が固いようです。でもそれは、福音の喜びでつながっているというより、特異な主張で社会から孤立し、その結果、仲間の結束が強まるのでしょうし、ここを離れたら永遠のゲヘナ(地獄)で焼かれるのではないかという恐怖心が強く、仲間同士でつながっているように見えます。恐怖心があるから抜け出せない「信仰」のあり方は、やはり、カルトです。

自分にも厳しいのでしょうが、人にもやたら厳しく、狭いグループの中での独自の聖書学習しかしておらず、しかも特定の翻訳の聖書や特定の聖書注解しか使わないので、少しでも違う意見や、違う翻訳、違う解釈に否定的なことを言い、時にはむきになって食ってかかっていきます。「聖書の記述に神話が含まれているという考えは間違いです。すべて文字通りの事実です」とか「その訳は学者の訳で信仰的な訳ではありません」とか「その訳はカトリックの影響を受けているので、カトリック寄りの歪んだ訳です」とか。

カルト化は、福音派、聖霊派に多く、特に単立教会に多いようです。

それは「聖書66巻は、すべて神の霊感によって書かれた誤りのない神の言葉」と信じ、「聖書に書いてあることを、すべて書いてある通りに信じる立場」だからです。

そこに、文字による支配の危険があるのです。こう書いてあるからこうだという律法主義・教条主義に陥る危険があるのです。

仮に、「聖書66巻は、すべて神の霊感によって書かれた誤りのない神の言葉」だとして、それを理解する人間の側が、すべて完全に誤りなく理解できるのですか? 神は絶対であるとしても、その絶対的な神というものを、人間の側が、絶対的に完全に誤りなく理解できるのですか?

多くの場合、福音派・聖霊派にあっては、聖書を批判的に読むとか、聖書批評学(特に高等批評学)とされる聖書学の流れを学ぶとか、許されません。ブルトマンの著書を読んで聖書の伝承と様式を学ぶとか、非神話化論を学ぶとか、日本なら田川建三、八木誠一、荒井献、佐竹明・・・・といった人たちの著書から学ぶとか、論外です。「自由主義神学の間違った考えです」と言われてしまいます。(注)

つまり、学問的な批判や客観化を拒否し、聖書66巻だけを絶対的な権威として受け入れるしかないのです。福音派・聖霊派の全員がそうだというのではありませんが、多くの場合、高等批評はもちろん、他教派や他宗教の見解を学ぶことも、哲学一般を学ぶことも、救いとは無縁であり、無駄だ、というとらえ方になってしまいます。聖書だけが唯一の信仰の論拠であるとし、服従するしかありません。熱心なほどそうなります。

しかし、理解する人間の側は、聖書のすべてを完全に誤りなく理解することなどできません。それなのに、純粋に正しく信じているような気になるのは、その教派、その教会の牧師の聖書解釈へ服従しているからです(聖書への服従ではなく、聖書解釈への服従)。それが、カルト化へ向かうのです。熱心に、原理主義的になればなるほど、「私たちは正統な、福音的な、聖書信仰に固く立つ」と思いこめば思いこむほど、カルト化の危険をはらんでいるのです。

教派団体に属する教会の場合はまだ、教派の上層部の指導もあるでしょうが、単立教会はそれもなく、カルト化に走る危険は高まります。

牧師が、「銀行員はいろいろな偽札を見ながら学ぶのではありません。本物のお札だけを見ているから、偽札はすぐに見破れるのです」などど教えて説明するのは、うちの教派が本物のお札で他教派や他宗教、他の思想は偽札だから、他とは交流するなという教えに聞こえます。

では、何が本当のキリスト教なのか、ということになるのですが、穏健で、良心的で、対話的で、戦争や暴力を否定し、傷ついている人たちを助けようとする「本当のキリスト教」は多様です。「平和島」の詩にでてくる「おんぼろの船」は、どれも同じではなくて、多様な、いろいろな船なのです。キリストに従う「おんぼろの船」の人たちは、自分たちも多様で、多様な存在である他者にも寛容です。どれも同じに見える「本物のお札」っぽい船のほうが、「豪華で巨大な船」なのです。

福音派と原理主義の違いは、これまで何度か書きました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/11/post-095f.html

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2016/08/post-68d2.html

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2016/12/post-7305.html

原理主義とカルトは重なります。どこが境なのか、そもそも境目があるのか、私もよく分かりません。原理主義の特異な教えを、人に迷惑をかけずに勝手に信じているならともかく、聖書の御言葉で人を脅したり、聖書の御言葉で教会員をマインドコントロール下に置いて支配しようとしたりして、自分や他者の人格を破壊しながら反社会的な行動に走れば、それは破壊的なカルトでしょう。たとえ聖書の教えに真理があるとしても、聖書カルトによる聖書の引用や彼らの解釈は真理を伝道しているのではなくて、誤った主張に聖書を使っているだけ、と言えます。

(一滴)

(注)こうした文脈で使われる場合、自由主義神学という言葉の意味も一般に使われている意味と違います(一般的な意味はネット上の「コトバンク」の自由主義神学の項の解説参照)。なお、日本語版ウィキペディアの一部のキリスト教用語は、特定の教派的立場から書かれているようで、中立的に思えません。つまり、使えません。

補注:福音派・聖霊派の中に、知的で、善良で、良識のある人も多数います。私自身、問題を抱えて苦しんでいたとき、福音派・聖霊派の人に助けていただいたことがあります。感謝しています。また、単立教会にも、他者に友好的で、対話を重視し、広く開かれた教会もあります。教会によりますし、人にもよりますから、一概にこうだとは言えません。福音派、聖霊派、単立教会の名誉のため、書き添えておきます。

「平和島」の詩はこちらに引用してあります。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/11/post-e773.html

他教派をさかんに攻撃する聖書カルトは、「この詩に出てくるおんぼろの船は異端者の船で、豪華で巨大な船こそ正統派だ」と言いたいのでしょうか。

真理子さんがこう書いておられます。ご参考まで。

www.babelbible.net/mariko/opi.cgi?doc=antifnd&course=life

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