聖書カルト
聖書カルトとでも言うべき人たちが、実際にいます。私は学生の頃、そういう人たちに会いました。私の偏見ではなくて、本当に、福音派や聖霊派と称する教会に多いようです。(聖霊派というのはペンテコステ派、またはカリスマ派のことです。「狭義の福音派」と「聖霊派の両派」をみな総称して単に福音派と呼ぶこともあります。)聖書カルトは、非常に原理主義的な人たちです。「異端」という意味ではありません。「信仰の論拠は聖書のみ」という主張は、伝統的なプロテスタントの見解であり、教義的な意味での異端ではありません。しかし、彼らは、伝統的な教義の枠の中にいるようでありながら、聖書の御言葉で人を脅したり、聖書の御言葉で教会員をマインドコントロール下に置いて支配しようとしたりします。教義的には「正統プロテスタント」なのでしょうが、脅しやマインドコントロールの手口は、イエスの教えとは方向が違います。「私たちは、統一協会、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教とは一切関係ありません」という、「正統の、福音的な、聖書信仰に立つ」カルトがあるのです。(注1)
聖書カルトの極めつけは、聖書の改竄(かいざん)です。「聖書にはこう書いてありますが、実はこういう意味です」と、書いてあることを変えてゆくのです。そのような書き換えが「~訳聖書」とか「~聖書注解」とか称されて、まるで聖書の翻訳や注解であるかのように出回ることもあります。これは、聖書の翻訳の形をした創作、注解の形をした創作です。聖書の学問的な校訂や本文の検討とは違います。当人たちが「信仰的に読めばこうなる」とする、聖書の書き換えです。それは「解釈の違い」でもありません。聖書に使われている単語も文法も時代背景も無視した改竄ですから、こういう解釈もあるとして成り立つ解釈の一つではないのです。私は、プロテスタント各派、カトリック、正教会などのそれぞれの解釈を尊重しますが、そもそも解釈として成り立たない主張を認めるわけにはいきません。(注2)
聖書カルトの人たちは、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16 新改訳)などという言葉を好んで引用しながら、聖書を、自分たちが「信仰」と称するものに都合がいいようにねじ曲げてゆくのです。
(ちなみにテモテ第二の書の著者が言う「聖書」は、今日の「聖書66巻」ではありません。この時代、新約聖書はまだ確定していませんし、旧約聖書の範囲もはっきりしていません。今でも旧約聖書続編の扱いなど、教派によって違います。テモテ第二の書の著者が「聖書」と呼んだのは、当時のシナゴーグで読まれていた聖書(旧約聖書)であり、今で言う続編や外典も含まれていたのかもしれません。これをあたかも今日の「聖書66巻」であるかのように語ること自体、錯覚させる手法であり、カルトの手口です。)
30年くらい前の話ですが、「私は純粋に福音を信じています」と称して「伝道」してくる聖書カルトっぽい人に、「あなたがたのやり方はエホバの証人と似てますね」と言ったら、怒った、怒った。「似てません! 全然違います! 何を言うんですか! あなたはキリスト教というものが全然わかっていない!」と、真っ赤になって怒りました。私も、当時は若かったし、目を覚ましてもらいたくて、「あなたのような人を原理主義者と言うのです。あなたは救いの中にいないようですから、救われるように願っています」と言ったら、もっともっと怒り出しました。
「あなたは原理主義者(=ファンダメンタリスト)ですね」と言われて怒る人は、原理主義者そのものか、似た者だから怒るのでしょう。もし私が誰かから「あなたは原理主義者ですね」と言われたら、「そんなわけないでしょう、あははは」で終わりです。怒ったりしません。私は原理主義者ではないし、似た者でもありませんから。
私も、若かったのです。人に愛を持って接する態度に欠けていました。でも、聖書解釈の違いとかではなくて、明らかに間違ったカルト的な教えを確信して信じこんでいる人に、いったいどう言えばよかったのか、今も答えを出せずにいます。
まあ、その人とはケンカ別れしたわけではなくて、その後も対話の努力はしました。でも、いつも話は平行線で、結局、目を覚ましてはもらえませんでした・・・・。
だって、紀元前4004年頃に天地が創造されたのだから、それ以前の歴史はない、とか。人も恐竜も三葉虫も同じ時代を生きていたのだ、ノアの方舟の時の洪水で沈み、それが化石になって出てくるのかもしれない、とか。そもそも化石は、天地創造の真理をごまかすためにサタンが造ったのかもしれない、とか。そんな話を受け入れることができますか。(注3)
聖書の御言葉を信じるとは、聖書に出てくる古代人の神話的な表現もみな、その通りの事実と信じなければならない、ということでしょうか。「聖書に書いてあることをすべて文字通りに信じないのは異端です」などと言われたら、今日のカトリック教会はもちろん、リベラルなプロテスタント(日本では日本基督教団など)も、穏健な福音派も、ほとんどのキリスト教主義の学校も、ほとんどの聖書学者や神学者も、みな異端派になってしまいます。大多数のキリスト教が異端で、反知性的でやたら攻撃的な原理主義・聖書カルトだけが正統だ、などどいう主張を受け入れられますか。例の聖書カルトっぽい人に「あなたは大多数のキリスト教を異端派だと言うのですか」と聞いたら、「正しさは数の問題ではありません」と言い返されてしまいましたが・・・・。
続く
(一滴)
(注1)もちろん、穏健で善良な福音派・聖霊派の人はたくさんいます。でも、中に、カルトっぽい人やカルトそのものもいるのです。カルト化が進むと、ボス的・教祖的な人物が支配したり、信者が多額の献金を要求されたり、経理が不透明で集められた献金が何に使われたのか分からなくなったり、パワハラやセクハラが横行したり、指導者が異性関係で問題を起こしたり、あげくの果てに悪質な性犯罪や性犯罪の隠蔽が起きたりするそうです。教祖的人物の存在、金銭問題、異性問題、そして聖典の改竄、錯覚させる手法、これらが種々のカルトに共通する問題ですが、聖書カルトのようなキリスト教系カルトにも当てはまります。
(注2)聖典の改竄までやれば、もう正統とは言えないと、私は思いますけれど。それに、「正統」が正しく「非正統」は誤り、なんてことにもなりません。500年前、当時の「正統」に抗議し、誤りを指摘したのが「非正統」の宗教改革者です。
(注3)だいぶ後から知ったのですが、天地創造が紀元前4004年だというのは、17世紀のアッシャーの年表(Ussher chronology)によるものです。ウッサーとかアッサーとか書いてあることもありますが、同じ人です。
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