キリスト教原理主義、あるいはカルト教会
キリスト教会と称する自称「教会」の中に、キリスト教原理主義(あるいはカルト)ではないかと思える団体があります。私が最初に行った「教会」もそうでした。
ネット上で「キリスト教原理主義(あるいはカルト)」と「福音派」を同一視している人もいますが、私は、同一視すべきではないと思っています。私自身、ちゃんとした福音派の人から親切にしていただいたし、ちゃんとした福音派はちゃんとしたことを言っています。福音派の出版社が次の本を出しているのを最近知って、読みました。
パスカル・ズィヴィー他著『「信仰」という名の虐待』2005
これを読み、自分が感じたことは正しかったと思いました。私は以前こう書きました。
家から行ける距離にある「キリスト教会」に行って話を聞いたりもしたのですが、どうも話が噛み合いませんでした。今思えば、それは、キリスト教原理主義(根本主義、ファンダメンタル)に近い人たちの「教会」だったようです。どういうふうに話が噛み合わないのかというと、まず、彼らは学問としてのキリスト教を否定します。キリスト教は信じるものであり学問的な研究の対象ではない、というふうに。キリスト教を学問的に研究する大学なんて駄目なんだ、というわけです。そして、他の宗教や他のキリスト教の教派を口汚く罵ります。そりゃあもう、すごい、機関銃のような罵詈雑言でした。自分たち以外の、ありとあらゆるものを非難するんですが、たとえば、自分たちに仏教の知識がないのに仏教を非難するのです。高校生だった私でも、彼らが知識もないのに非難しているのが判りました。じゃあ仏教のどこがどう駄目なのかと聞くと答えられないのです。「聖書の教えではないから間違いです。仏像や仏壇を拝むから偶像崇拝です」みたいな感じ。あまりにも知らない。相手に対する知識もないのに非難する態度に面喰らいました。当時、私には、キリスト教の教派の知識なんてほとんどなかったんですが、私が遠藤周作の本を読んで思ったことをちょっと言ったら、否定、否定、否定で、まあ、凄い(※)。どうも彼らの頭の中は、自分たち以外はすべて誤謬で(※※)、「カトリック=サタン」、「日本基督教団=自由主義に毒された異端」、みたいでした(※※※)。
※ちなみに、遠藤周作著「イエスの生涯」と「キリストの誕生」など。正確さはともかく、読んでおもしろい。
※※当時はインターネットなんてありませんでしたが、今、ネット上にはデマや誹謗中傷の書き込みも多く、何か調べようとして検索するといやな書き込みが飛び込んできます。「相手に対する知識もないのに非難する」「自分たち以外はすべて誤謬」みたいな書き込みを見ると、私はこの時のことを思い出します。
※※※「日本基督教団」という名前の団体のことは何も知りませんでした。彼らがやたら言うんでその名を覚えてしまいました。なんだか、彼らの話だと異端的な悪の組織みたいでした。大学に進学してから日本基督教団の人たちと会いましたが、ほとんどはちゃんとした人です。まあ、内紛の多い団体のようですが・・・・。
今もそうですが、1980年前後も、中東では紛争が続き、キリスト教徒によるイスラム教徒殺害やその逆も起きていました。また、日本では、政治家の靖国神社参拝の是非なども問われていました。私は、その教会の「牧師」にそうした問題について聞いてみたんです。そしたら、「クリスチャンは神の国と神の義を第一に求めるべきで、地上の問題や政治についてどうこう言うべきではありません」という答え。あまりにも社会や政治に無関心というか、ますます話が噛み合いません。
今の私には、彼らに対する怒りや憎しみの感情はありません。でも当時でもあきれたし、まあ、当時は私も若かくて、けっこう腹も立ちました。あのころ、他の教会を知らなかったから、他と比べてどうこうは言えませんでしたが・・・・。もし、彼らが今も考えを変えていないのなら、気づいてほしい、目を覚ましてほしいという思いです。
出典http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/10/post-3000.html
元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師の仁保裕介氏が、こうお書きになっています。
引用開始
カルト信仰によって純粋培養された若者や主婦、2世信徒などの世間の狭さと常識・社会性の弱さは、問題の因子であり解決のひとつの壁ですが、「純粋な世界」と信じてしまう素地は多くの人に備わっています。牧師や親などが無意識にその「純粋な世界」のローカルルールに「信仰の子」を留めてしまうので、広く社会的な経験や情報の制限をする結果を生みます。
いくら魂の救いについてであっても、「独自のローカルルールによる信仰形態の強制(脅迫)と情報・経験の制限」は無意識とはいえ虐待と呼べるものです。このように価値観を変える意図を持つ信仰指導が、未必の故意による虐待となります。それを十分に警戒したり、自覚していないので、加害側牧師や信徒が状況を理解できないのです。
牧師や若年層などに社会経験や人的交流の多様さが無く、その薄さが、そのままカルト信仰に進む危険に直結しているのは事実です。最近のネット右翼の問題も同じ事情です。
引用終了
私も、宗教の原理主義、カルト、ネット右翼などは似ていると思います。今の日本では、その気になればさまざまな情報を得ることができますが、自分にフィルターをかけて、都合のよいことだけを聞いたり読んだりするのです。「世間の狭さと常識・社会性の弱さ」「社会経験や人的交流の多様さが無く、その薄さ」で、当人たちが「純粋」と信じる閉鎖的な偽りの世界から出られなくなってしまうのだと思います。
そうした殻の中にいるキリスト教原理主義っぽい人に、目を覚ましてもらいたくて、いろいろと指摘したこともあるんですが、火がついたみたいに怒り出して「あなたはキリスト教を否定している。あなたには信仰がないからそんなことが言えるんだ!」って、まあ、すごい剣幕でした。
私はキリスト教を否定したことなどありません。私が否定するのは、閉鎖的な偽りの世界に閉じこもる原理主義やカルトです。
(伊藤一滴)
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