« 鮭 塩引き完成 | メイン | 偽書、偽史 »

キリスト教原理主義者たちの主張の矛盾


1.キリスト教の唯一の論拠は聖書?

キリスト教原理主義の人たち(原理主義に近い「福音派」を含む)は、「キリスト教の唯一の論拠は聖書です」と強調して言う。
だが、「唯一の論拠は聖書」と言いながら、「伝統的にこう信じられてきたのです」とか、「古代の教父の証言にこうあります」とか言いだす。さらに「〇〇教会会議(カトリックから見れば公会議)で〇〇信条が定められました。これを信じるのが正統で、この信条を認めないのは異端です」とまで言い出す。
そんなことをいろいろ言っていたら「唯一の論拠は聖書」じゃないじゃないか!

「唯一の論拠は聖書」なんて言いながら、実は、教会の伝統や、伝統的に受け継がれた解釈も論拠に使っている。
「教会の伝統や、伝統的に受け継がれた解釈」を信じてはいけないとは言わないが、その教派の独自の見解や、その教会の牧師の主観的な主張まで、ごちゃまぜにして使っている。
「唯一の論拠は聖書」と言ってはいるが、実は、彼らの主張は、数々の「人間の側の理解」から寄せ集めた切り貼りだ。

「キリスト教の唯一の論拠は聖書なら、聖書が成立する前の正しい信仰とは何だったのですか?」と聞くと、答えられなくなる。

何もないところに聖書が与えられ、それを読んだ人たちに信仰が生じたのではない。
信仰が先だ。
神を信じる信仰を持つ人たちによって聖書は執筆され、やがて正典として確立した。
信仰の成立より先に聖書があったのではない。
「文字としての聖書がなかった時代も神様の御心の中に聖書66巻はあったのです」といった主張があるが、聖書のどこにもそんなことは書かれていない。「聖書は66巻である」とも書かれていない。
「旧新約聖書66巻だけが正典であることは、カルヴァンの著書やウエストミンスター信仰告白にもあります」って? だから、それ、宗教改革時代に人間が書いた文書でしょ。それとも、そうした文書も聖書と並ぶ正典だって言いたいの?


2.聖書は誤りなき神の言葉?

「聖書は誤りなき神の御言葉です」。これも彼らがよく言うが、これもまた、聖書のどこにも「聖書は誤りなき神の言葉」とは書かれていない!
聖書のどこにも書かれていないことを言いながら「唯一の論拠は聖書」と言い張る。

パウロに帰せられる書簡の中に「聖書はすべて神の霊感によるもので~」とあるが(2テモテ3:16)、この著者にしても「聖書は誤りなき神の言葉」とまでは言っていない。また、聖書とは何か、どの文書を聖書と呼ぶのかについての言及もない。時代を考えれば、当然だが、著者が言う「聖書」に新約聖書は含まれない。新約聖書の確定は4世紀の末である。まだないものに言及できるはずがない。「パウロは霊感によってやがて新約聖書が世に与えられるとわかっていたのです」といった主張まであるが、むちゃくちゃな主張だ。仮にこの書の著者がパウロだとしても、当時まだなかったものをテモテに読むよう勧めるはずがない。


3.聖書は神の霊感を受けて書かれており、原典において何の誤りも含まない?

「聖書はすべて神の霊感によるもので~」とパウロを称する人物が書いているので、この主張の前半の「聖書は神の霊感を受けて書かれており」には「聖書的根拠」がある。ただし、先に書いたとおり、このパウロを称する人物の頭の中に新約聖書はない。つまり、霊感を受けたのは旧約聖書であり新約は含まれていない、となる。また、旧約聖書の範囲についても書かれていないので、続編部分の扱いもはっきりしない。著者の念頭にあったのが七十人訳ギリシャ語聖書なら、翻訳された旧約聖書も聖書であり、七十人訳に含まれる旧約続編(アポクリファ)も聖書である、ということになる。著者がシナゴーグで朗読される聖書を念頭に置いていたとしても、新約聖書は含まれない。

「聖書は原典において何の誤りも含まない」といった類の主張が最初から破綻しているのは、以前私が書いた「シカゴ声明批判」参照。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/04/post-e9aa.html


4.空中携挙のときが来る?

「忠実な信者たちは、地上の大患難期が始まる前(またはその間)に突然天に引き上げられ、空中で主に会う」という、いわゆる「空中携挙」の主張があるが、これはキリスト教の伝統的な見解にない新興神学である。

私が知る限りカトリックにも東方教会にもこうした主張はないし、ルターやカルヴァンの主張にもない。
携挙論は、19世紀の新興キリスト教の中に生じた主張のようだ。(古くから携挙論はあったとする主張もあるが、たとえそうだとしても歴史の中で廃れた見解であり、キリスト教が伝統的に受け継いできた見解ではない。)

伝統的に、新旧両派共、キリスト教の主流の側は、終末に起きる出来事は神の摂理に委ねるべきだとして、人間が細かく予測したり時間区分を論じたりしてこなかった。
こうした伝統に反し、19世紀のジョン・ネルソン・ダービー(John Nelson Darby)らは「ディスペンセーショナリズム」(時代区分説)という新興神学を提唱し、聖書の歴史を複数の時代に分けて、神がそれぞれの時代に異なる方法で人類に働きかけているとした。そして、この新興神学の広がりの中で携挙論も広まっていった。

つまり、カトリックも、正教会も、プロテスタント主流派も(自由主義神学やその後の神学も含めて)、キリスト教の伝統を受け継ぐ伝統派のキリスト教であるが、ディスペンセーショナリズムの主張は伝統から逸れた新興神学なのだ。
逆ではない。

逆のように聞こえるが、エキュメニズム派、リベラル派と呼ばれる人たちが、実は伝統派であり、保守的福音派(コンサバティブ)とされている人たちが、新興神学、新興キリスト教なのである。

携挙の根拠は1テサロニケ4:16~17などだろうが、これは「世の終わり」や「主の再臨」がなかなか来ないことを問われたパウロの苦し紛れの答弁だろう。パウロが、当時、彼が置かれた状況の中で想像して答えた話であり、ここから終末の時にはこうなると具体的に話を導くのは無理がある。

イエス自身も終末論者であって、世の終わりが突然来るようなイメージを持っていたようだが、福音書が記すイエスの教えの中に空中携挙の話はない。
空中携挙論だと、忠実な信者は特権的に救われて大患難に遭わずに済むことになる。これは、イエスの教えと相容れない。イエスは「聖書の教えに忠実な人たちに特権が与えられる」といった主張をしていない。むしろ、教えを守りたくても守れない徴税人や遊女らが真っ先に救われると説いている。
キリスト教の頂点はイエスの教えである。キリスト教の中には種々の立場や考え方があり、簡単に正誤の決めつけはできないにしても、私は、イエスの教えとの整合性を欠く空中携挙論のような主張を認めることはできない。


5.非クリスチャンは救われない?

これも、以前書いた通りなので、下記を参照していただきたい。

キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/11/post-9e3e.html

救われるのはクリスチャンだけ?
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2023/05/post-6fbb.html


6.「正しい教会」?

「正しい教会」とは何だろう?
原理主義者は自分たちの教会を正しい教会とし、カトリック教会や主流派のプロテスタント教会をやたら非難する。そして、自分たちのことを「正統」、「福音的」、「聖書的」、「正しい聖書信仰」などと言う。そう言って自分たちを正しいとし、「他派は間違いだ、異端だ」と非難を浴びせてくる。
新興キリスト教である原理主義者が伝統的キリスト教を「間違っている」だの「異端だ」だのと言うのも噴飯ものであるが、そんなに自分たちが「聖書的」なら、「聖書に出てくる教会が正しい」とすべきだろう。

新約聖書に出てくる教会は、現代の一般の教会とかなり違う。(本当は集会と訳すべきなのだが、伝統的に教会と訳されている。)

新約聖書の教会は、建物としての教会(教会堂)ではない。信者は日曜日に一般の家庭に集まっていた。家庭での集会だった。職業としての牧師もいなかったし、牧師の説教が中心の礼拝でもなかった。讃美や祈りがあり、預言や異言もあった。集まった人たちはパンを割いて分け合っていたが、聖餐の儀式というより共同の食事だった。

とことん聖書的であろうとするなら、教会の建物や、職業としての牧師や、牧師の説教なども否定するか、「あってもよいが、なくてもよい」となるのではないか。聖書に書いてある通り、預言したり、異言を語ったりすべきではないのか。女は髪を切らない、教会で発言しない、被り物を被る、女性牧師など言語道断、となるのではないか。
原理主義者は「唯一の論拠は聖書」と言いながら、聖書に出てくる教会と一致しない原理主義教会の実態に矛盾を感じないのだろうか。


7.聖書は十全霊感の書であり、部分霊感説(=部分的霊感説)は間違っている?

原理主義者は、「聖書は十全霊感の書です。聖書66巻は信仰や生活の規範として無謬であるだけでなく、科学的・歴史的な面でも一切誤りのない無誤の書です」と言う。そして、「エキュメニズム派(プロテスタント主流派やカトリック教会など)は、十全霊感を信じておらず、部分霊感説を主張しているので間違っています」とくる。

何を言っているのだろう。私は、プロテスタント主流派やカトリック教会の人から「私たちは部分霊感説を信じています」なんて話は一度も聞いたことがない。私が知る限り、プロテスタント主流派やカトリックの神学に「部分霊感説」などという言葉はないし、おそらく「部分霊感」という概念さえないと思う。

「部分霊感説」という言葉は、原理主義者や原理主義に近い「保守」的な福音派が、他派を非難する文脈の中で用いる言葉で、要するに、他派へのレッテル貼りに使う言葉だ。

彼らの主張だと、「部分霊感説というのは、聖書の記述の中の信仰上の事柄にだけ神の霊感が及んでおり、科学や歴史の分野では聖書に誤りがあるとする説」で、「エキュメニズム派はこの説を信じている」。これは「十全霊感と対立する誤った説」だから「エキュメニズム派は間違っている」とくる。

そのような主張をしていなのに、「彼らはこう主張するがそれは誤りです」などと言わないでもらいたい。
私が知るエキュメニズム派の人は誰一人「部分霊感」などと言っていない。

聖書には科学的・歴史的な事実に反する記述も多い。現在、原理主義者は別として、ほとんどのクリスチャンがそう認めている。だからといって、科学的・歴史的な事実に反する記述には神の霊感が働いていないとか、神の霊感が薄いとか言っているわけではない。

「聖書は神の霊感によって書かれた書である」という主張と、「聖書には科学的・歴史的な事実に反する記述も多い」という主張は対立するのだろうか。
「神は、古代の神話や伝説や創作などのいろいろな話を用い、当時の人たちが受け入れられる表現で、人間に大切なことを伝えてくださったのだ」と考えるなら、2つの主張は対立しなくなる。

他派が言っていないことを言ったことにして自分たちを正当化する「正しい聖書信仰」の人たちに正しさなどない。


8.おわりに

上記で私が批判した原理主義者の見解は、教派にもよるが、原理主義でない教会の中にもある。
キリスト教原理主義を非難すると、部分的には、原理主義でないクリスチャンの見解まで非難しているようになってしまう。
書きながら、私に親切にしてくださった善良なクリスチャンたちのことが頭に浮かんできて、恩人の信仰を悪く言うようで、心が苦しかった。だが、私は、理屈の通らないことを認めることはできないし、自分の考えを偽ることもできない。

原理主義者の一番の問題は、罪の意識や地獄の恐怖が常に信仰の中心にあって、いつもおびえていることと、他者に対する極めて不寛容で攻撃的な姿勢だ。そして、自分たちが持つ不安の中に他者を引っ張り込んで、不安な思いを共有させることを福音伝道だと思っている。
うちの次男が言っていた、「創造論とか進化論否定とかより、罪や地獄を強調して脅すことや、善意の他者を一方的に非難することが問題なんだよ! 不寛容な態度が問題なんだよ! それ、イエス様の姿勢と違うよ」って。

(伊藤一滴)

グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。