「信仰の論拠は聖書のみ」という主張の限界
「信仰の論拠は聖書のみ」という主張の限界について、これまで何度か書きました。
「信仰の論拠は聖書のみ」の限界
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/08/post-a875.html
「聖書」が先か「キリスト教信仰」が先か
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/12/post-d4b2.html
プロテスタントの限界とカトリックの限界 覚え書き
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2022/01/post-22f7.html
「信仰の論拠は聖書のみ」というのは、一種の聖伝
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/09/post-64b2.html
聖書と聖伝 プロテスタントとカトリックの発想の違い
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/09/post-f6de.html
聖書的根拠のないことを信じるのが聖書信仰?
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/12/post-4ef3.html
前から言っているとおり、聖書が成立する前からキリスト教信仰がありました。
キリスト教信仰の成立は、聖書の成立より先です。
聖書が成立する前のクリスチャンたちは、いったい何を信仰の論拠にしていたのか、「信仰の論拠は聖書のみ」では答えられなくなります。聖書66巻なんて、まだなかったのですから。
さらに補足します。
聖書が完成した後、神の啓示、神の導きといったものは、ストップしてしまったのでしょうか?
聖書の完成後も、神様は人々に啓示を与え導いてくださったと言うのなら、聖書完成後の啓示や導きは信仰の論拠にはならないのか、という問いが出てきます。
クリスチャンは、「それらはまったく信仰の論拠になりません!」と言い切る自信がありますか?
そう言い切るなら、信仰の論拠に使えるのは聖書完成までの出来事で、かつ、聖書に書いてある話だけ、ということになります。
聖書の完成後から今日までの、神についての論考はどうなのでしょう。神学と呼ばれる論考の数々や信仰告白は、信仰の論拠にはならないのでしょうか。それらは聖書から導かれたものだと言っても、キリスト教綱要にもウェストミンスター信仰告白にも、聖書にはっきり書かれていないことが出てきます。
「聖書にはっきり書かれていなくても、聖霊の導きによって明らかだ」と言うのなら、「信仰の論拠は聖書と聖霊の導きの2つである」と言うべきでしょう。
それに、ある考え、行動、出来事などが聖霊の働きかどうか、誰も証明できません。聖霊の働きだから証明の必要などないと言うなら、どんな無茶苦茶な主張も聖霊の働きと言い張ることができて、何でも可能になってしまいます。
「聖書は66巻である」
「信仰の論拠は聖書のみ」
「聖書は誤りなき神の御言葉」
「聖書の権威」
実は、こうした言葉は聖書に出てきません。
いろいろ理屈をつけて説明しようとする人たちがいますが、どれも、はっきり聖書に書かれていません。
つまり、これらの主張には、万人に明確に示すことができる聖書的根拠がありません。
16世紀の歴史的な事情で、聖書中心主義が主張されました。カトリック教会の腐敗への対抗のため、聖書の権威を教会の上に置いたのは、当時としてはやむを得なかったのでしょう。この時代の事情により、福音主義者(プロテスタント)は最初から聖書的根拠がはっきりしない主張を掲げ、宗教改革を進めました。
カトリックの側も対抗的に自らの改革を進め、20世紀の半ばを過ぎてからは対抗よりも対話へと態度を改め、その対話路線は今に至っています。
教派によって温度差もあるようですが、基本的には、プロテスタントは16世紀の歴史的な状況のもとで掲げた主張を今も変えません。もう、歴史的事情の方が変わっているのに。
プロテスタントの一部には保守頑迷で狂信的な原理主義者やカルトもいて、なぜ「信仰の論拠は聖書のみ」という主張が生じたのかという歴史上の事実など無視して聖書の文字づらを絶対視しているようです(より正確に言うと、聖書の文字づらを使って、自分たちのイデオロギーを絶対視しているようです)。「福音派」と称する中にはカルト化も見られ、支離滅裂なことを言い、カトリックとはもちろん他のプロテスタントの教派とも対話せず、他派に的外れな非難を繰り返しています。余りにも的外れな主張なので、事実はこうですよとちょっと言うと過敏に反応し、「私たちは正しい聖書信仰に立つので、世間からだけでなく間違ったクリスチャンたちからも弾圧され、迫害されています」とか「正しい福音主義の信仰なので差別されています」とか、被害妄想的にからんできたりします。どうも、世間一般や他派のキリスト教への、複合的で根深い劣等感のようなものがあるようです。たぶん、火がついたように怒る過敏な反応は、「信仰」と称するものへの自信のなさの表れなのでしょう。
彼らが言う「権威ある聖書66巻は誤りなき神の御言葉で、信仰の論拠は聖書のみだから、リベラル派やカトリックは間違っています」といった主張は、もちろん、「聖書的根拠のない主張」です(※)。
(※「権威ある聖書66巻は誤りなき神の御言葉」とか、「信仰の論拠は聖書のみ」といった主張は、私自身は歴史的見解だと思っていますが、今もそう信じる人を非難しているのではありません。私は、「リベラル派やカトリックは間違っています」と決めつけて非難を繰り返す原理主義やカルトの主張を否定するのです。しつこいくらい言いますが、福音派の人たちは私の恩人です。たとえ考え方に違いがあっても、恩人の信仰を頭から否定したりしません。私は、まっとうな福音派と自称「福音派」は別だと考えています。)
中世の長い間、いったい誰が聖書を書き写して伝えたのでしょう。カトリック教会です。「間違ったカトリック教会が伝えてきた聖書は正しい」、ということですか?
カトリック教会を否定すれば、「カトリック教会の成立から宗教改革までの千何百年の間、この世には正しい教会はまったくなかった、16世紀になって初めて正しい教会が出現した」ということになります。だとすると、イエスや使徒から受け継がれた教会は、途中が切れてこの世から消滅し、16世紀にまた発生したということになります。
間が千年以上切れていますから、自分たちは使徒を受け継ぐ教会ではない、使徒性がない、ということでいいのですか? あるいは使徒性というものは、途中が長く切れてから、また発生するんですか?
これらが、以前書いたことへの補足で、私が感じている疑問です。
故植田真理子さんがネット上に残された文章を読んでいたら、私が長年疑問に思っていたことが、ずばり書いてありました。
引用開始
プロテスタント教会はカトリックの歴史を否定するために「聖書のみ」を強調しました。そのことは確かに、当時腐敗していたカトリック教会への批判として有効であったと思います。しかしこれを強調しすぎると、キリスト教はキリスト教でなく「聖書教」になってしまいます。
クリスマスを12月25日に祝うことをはじめとして、キリスト教には数多くの「聖書に基づかない」習慣があり、プロテスタントでも一部の急進的な教派を除いては、そういう習慣を受け入れているのが現状です。そして私はそのことをいいことだと思っています。
聖書は所詮は紀元2世紀までに成立した古代の文書にすぎません。ですから「聖書のみ」を強調することは、現代人を一足飛びに2世紀の世界へとタイムスリップさせて、それ以後の教会の歴史、知的営為の歴史をまるきり否定することになります。
当教会(※引用者注1)では、聖書以後に発展した教会の歴史やさまざまな考え方を柔軟に取り入れていきます。
そして、その一環として、聖書に基づかない諸聖人への信仰を取り入れます。その象徴がマリア信仰であり、それを「真理」にひっかけているのです(※引用者注2)。
引用終了
出典 https://www.babelbible.net/mariko/opi.cgi?doc=truthlib&course=church
真理子さんはおっしゃっています。
「聖書は所詮は紀元2世紀までに成立した古代の文書にすぎません。ですから「聖書のみ」を強調することは、現代人を一足飛びに2世紀の世界へとタイムスリップさせて、それ以後の教会の歴史、知的営為の歴史をまるきり否定することになります。」
「まるきり否定(ママ)」は言い過ぎかもしれませんが、「聖書のみ」を強調すれば、聖書に書かれていない2世紀以後の教会の歴史、知的営為はみな、信仰上の導きには使えないということになります。
エラスムスが言ったという「ルターは曲がった関節を真っすぐに戻そうとして、反対側に脱臼させてしまった」という言葉を思います。
(伊藤一滴)
引用者注
※1:真理子さんがネット上でつくったキリスト真理自由教会のこと。
※2:カトリック教会、正教会、プロテスタントの聖公会、ルーテル教会などには、聖人という考え方があり、聖人は信仰の範として敬愛されています。実は、世界のキリスト教全体では、聖人を認めない方が少数意見です。
聖公会の聖人に、私が心から尊敬する聖エディス・キャベル(イーディス・キャヴェル)がいます。第一次大戦下、敵味方の区別なく大勢の命を救った看護師です。聖公会の信者であったキャベルは信仰上の信念を貫いて行動し、敵兵を助けたという「罪」でドイツ軍に銃殺されました。
聖キャベルは、今も戦乱の続くこの世界をどうご覧になっているのでしょう? この世界の現実に対して、何とおっしゃるのでしょう?
「聖キャベル、世界の平和のために私たちと共にお祈りください」と願うことが、どうして偶像崇拝だとか間違った信仰だとか言われるのでしょうか?
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