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「聖書」が先か「キリスト教信仰」が先か

卵が先かニワトリが先かという話がありますが、聖書とキリスト教信仰と、どっちが先なのでしょう?

キリスト教信仰が先です。

以前書いたことを繰り返します。

「信仰の論拠は聖書のみ」というプロテスタント信仰(聖書中心主義、本来の意味での福音主義の信仰)の限界の一つは、新約聖書の成立より先にキリスト教信仰があったという事実です。
何もないところにいきなり聖書が与えられ、それを読んだ人たちに信仰が生じたのではありません。信仰が先です。イエスの教えやわざがあり、イエスは復活した、彼はキリストだと信じられ、信仰が受け継がれて、信じる人たちの共同体の中で新約聖書が成立したのです。

キリスト教信仰の成立は、新約聖書の成立より先です。

新約聖書があってのキリスト教の成立ではなく、キリスト教が信じられる中で新約聖書が成立したのです。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/08/post-a875.html


たとえて言えばこうなります。

人間の言語は、先に文法書があって、文法書に基づいて出来るのではありません。
人造言語は別として、普通は言語が先で、その言語を明らかにするのが文法です。

同様に、聖書が先か信仰が先かを問えば、信仰が先です。

古代ユダヤ教の信仰が先にあって、信仰を証しした文書がヘブライ聖書(旧約聖書)です。
旧約を受け継ぎつつ、キリスト教の信仰が成立した後、キリスト教の信仰を証しした文書が新約聖書です。

信仰が先です。

キリスト教が始まった時代、まだ新約聖書はありませんでした。また、旧約聖書も確定していませんでした。つまりイエスが生きて活動した時代はもちろん弟子たちやパウロらが伝道した時代も「聖書66巻」なんてなかったのです。

ユダヤ教がヘブライ聖書(キリスト教から見れば旧約聖書)39巻を確定したのは西暦90年代ですし、新約聖書の27巻の確定はずっと遅く、4世紀の末です。

イエスや弟子たちが活動していた時代、「旧約聖書39巻」の正典化はまだで、「律法と預言者」(つまりモーセ五書と預言の書)は重んじられていましたが、どこまでを正典とするのか厳密な定めはなかったのです。正典とアポクリファの区別もありませんでした。「39巻」が正典と定められたのは西暦90年代ですから、イエスの死(西暦30年頃)からだいぶ経ってからですし、しかもキリスト教徒が定めたのではなく、ユダヤ教のファリサイ派(パリサイ派)の学者が中心となって決めたのです。キリスト教徒はこのヘブライ語の39巻ではなく、その後も主に七十人訳を使い、やがてヒエロニムスのラテン語訳が出て、ラテン語訳が主流となったのです。

七十人訳には39巻にない文書も含まれており、キリスト教にとっての旧約の範囲は不明確なままでした。今も旧約の範囲は教派によって違います。

新約も、一貫した「新約聖書27巻」ではありませんでした。初期の教会ではどの文書を新約聖書と認めるのか、揺れていました。私たちはエイレナイオス(イレネーウス)の証言やムラトリ正典目録から、新約の揺れを知ることができます。教会は4世紀の末になってようやく「27巻」を公認しましたが、それから千年以上経ったルターの時代になってさえ、どこまでを新約正典とすべきか揺れていました。ルターは、ヘブル書、ヤコブ書、ユダ書、黙示録の四書には正典性はないと考えていたようですが、読者の判断に委ねようとしたのか自分が訳したドイツ語訳聖書から外しませんでした。もしルターが妥協せずにどこまでも自分の考えを通したなら、ルター派の聖書にこれらの四書はなかったかもしれません。

さらに近代の歴史的批判的な聖書研究(高等批評学)は、これまで伝えられてきた新約文書の著者と実際の著者がほとんど一致しないことを明らかにしました。
正典の中にはテモテ前書(テモテへの手紙一)のような、パウロの名で書かれた差別的文書まで入っています。疑似パウロ書簡(偽パウロ書簡)であっても、内容がよいのならともかく、テモテ前書のような女性を著しく差別する不快な文書まで、パウロの作と誤解されて正典に入ってしまいました。
もし、疑似パウロ書簡が正典に入らず、マリア福音書(マグダラのマリアによる福音書)が正典な入っていたとしたら、その後の教会の女性に対する対応はずいぶん違っていたことでしょう。マリア福音書はグノーシス文書だから排除されて当然だと言うのなら、ヨハネ福音書だって広義ではグノーシス文書ではありませんか。実際、グノーシス派の教会は好んでヨハネ福音書を使っていました(バート・D・アーマンによる)。古代の「正統派」の教会はグノーシス派を異端として排除しながら、彼らが使っていたヨハネ福音書は自分たちの正典に採用したのです。

4世紀末の教会が新約正典を選んだ基準は、十二使徒の一人が書いたと考えられたもの、パウロが書いたと考えられたもの、使徒の身近にいた人が書いたと考えられたもの、イエスの兄弟が書いたと考えられたものでした。正典文書の選定にあたり、使徒やイエスの兄弟と関連付づけて権威を持たせようとしたのでしょう。しかし、当時著者とみなされていた人物の多くは実際の著者ではないことが今日わかっています。著者が確実視されているのはパウロ書簡の一部だけです。

キリスト教信仰の根拠として聖書という正典を制定したのでしょうが、正典の制定とはその程度のものなのです。
その程度のものに、やれ、内的権威だの、無誤だの、唯一の論拠だの、聖霊の働きによる内証だのと言うのは、聖霊に対して失礼ではありませんか。
「キリスト教綱要にこうあります」とか「ウエストミンスター信仰告白にこうあります」とか言う人たちがいますが、キリスト教綱要やウエストミンスター信仰告白といった人間が書いた文書で、神を上から規定し、縛るのですか? 人間が書いた文書は神より上位なのですか?

人間が土の器であるように、人間によって人間の言語で書かれた聖書もまた、神を証しする器のようなものではないのですか。器のようなものを神聖不可侵の不磨の聖典のように見なす方がおかしいのです。正典成立史を考えたって、そういう神聖視はおかしいのです。器を神聖視する人ほど、中のイエスの教えを大事にせず、イエスの教えより自分たちのイデオロギーを優先しているように思えます。

パウロが言ったように、私たちは今ぼんやりと鏡に映ったようなものを見ているのでしょう。
聖書という正典もまた、ぼんやりしたものなのでしょう。

どうして、無誤の文法書が先にあってその文法書に基づいて正しい言語がある、みたいな発想になるんでしょう。言語が先なのに。
聖書66巻が先にあってその聖書に基づいて正しいキリスト教がある、みたいな発想は、考え方がひっくり返っています。そして、キリスト教成立の歴史的事実にも反しています。


なお、新約聖書に出てくる旧約からの引用は、ヘブライ語を正確に訳したものではなく、多くは七十人訳からの引用や、七十人訳を一部変えたものです。
ヘブライ聖書と七十人訳は違う点がかなりあり、新約の執筆者らはヘブライ聖書を見ながらではなく七十人訳をもとに論考し、執筆し、引用しました。

ヘブライ聖書と七十人訳と、両方とも日本語訳が出ており、日本語訳を比べるだけでもかなり違うのがわかります。

もし、「無誤の旧約原典はヘブライ語の聖書であり、訳文は無誤ではありません」と言うのであれば、新約の執筆者が七十人訳というギリシャ語の訳文から引用しているのをどう考えればいいのでしょう。
「新約聖書に引用された部分だけは七十人訳も無誤で、たとえヘブライ語とかなり意味が違う訳であっても無誤」なのでしょうか。だとすると、無誤の原典が2種類あることになります。また、新約執筆者の記憶違いと思われる引用の誤りもありますが、「たとえ引用が誤っていても、新約に書いてある以上無誤」なのでしょうか。そういう理屈だと、「誤っていても無誤だ」という、わけのわからない話になります。


「文字としての聖書がなかった時代も神様のお考えの中に聖書66巻があったのです」といった主張もありますが、そのような主張は証明も確認もできません。いわゆる「聖書的根拠」すらありません。聖書のどこにも聖書の目録はありませんし、「聖書は66巻である」という記述もありません。
「聖書の正しさは聖書それ自体が証ししている」と循環論法を持ち出す人もいますが、たとえそのような循環論法を用いても、聖書それ自体「聖書の範囲はどこまでか」を証ししていません。
「私が持っている聖書にはちゃんと66巻の目次があります」なんて言わないでくださいよ。それはあとから付けられた目次ですから。私は聖書66巻+旧約聖書続編を全部じっくり読みましたけど、どこにも「聖書は66巻である」とは書かれていませんでした。

となると、「聖書は66巻である」という根拠は何ですか?
伝承ですか?
カトリックの伝承は否定しながら、自分たちは伝承を持ち出すのですか?
それともウエストミンスター信仰告白のような、あとから書かれた人間の言葉が根拠ですか?

「神様のお考えの中に最初から聖書66巻があったのです」というのは、その人の想像に過ぎません。人間の想像で学問的な聖書正典化の歴史を否定するのはナンセンスです。どうしてその人には聖書のどこにも書かれていない「神様のお考え」がわかるのでしょう。「聖書66巻は神様のお考えの中にあった」とどこまでも言い張るのなら、その人は自分を神の座に置くことになります。「私は神である」と言っているのと同じです。

どの文書を聖書と認めるのか、どこまでが聖書なのか、時代の中で揺れていました。
旧約聖書は今も教派によって違いますし、新約も、歴史的研究をふまえて正典を再検討した方がいいという見解もあるのです(蛭沼寿雄『新約正典のプロセス』)。

歴史を貫いて万人が認める「聖書66巻」なんて、ありません!


「そんなことが聖書のどこに書いてあるのですか」とか「〇〇派は聖書に書かれていない主張をしているので間違っています」とか、ことあるごとに言う人たちがいますが、聖書に書いてあっても書いてなくても、正は正、誤は誤です。
聖書に書いてあるかどうかが正誤の基準ではありません。

それでも地球は回っています。
地球が回っているなんて聖書のどこにも書いてありませんが、それでも地球は回っています。

だいたい、どこまでが聖書なのか、その範囲もはっきりしていません。

(伊藤一滴)

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