聖書的根拠のないことを信じるのが聖書信仰?
聖書的根拠があるとか、ないとか、私は軽々しくは言わない。
聖書の学びが浅い人たちや、特殊な考えに凝り固まった人たちが、聖書的にどうだとかこうだとか、ここにこう書いてあるとか、文脈を無視して言いたがる。罪、悪魔、裁き、地獄といった言葉がしょっちゅう口から出て、それらが信仰の中心にあるような人たちだ。そうした人たちの中に、身勝手で、無礼で、社会の諸問題にまるで無関心で、困っている人のために指一本動かさない人が多いような気がする。それに対し、どの教派であれ、神を愛し隣人を愛するという教えを何より大切にする人たちは、枝葉にこだわらず、人に優しく、特に困っている人たちに優しいと思う。
聖書的根拠がどうこうなんて、軽々しくは言わないつもりだが、私も、聖書のどこにも書かれていない主張や、聖書の言葉から導き出すのが困難な主張の場合、「それは聖書的根拠がない」とか「聖書的根拠が薄い」とか、言うときはある。それは、聖書にまったく書かれていない、またははっきりとは書かれていないという客観的な事実があるからだ。
例えば、
「マタイ福音書の著者は十二使徒の一人マタイであるという聖書的根拠はない」(聖書に書かれていない。)
「日曜日は安息日であるという聖書的根拠はない」(「土曜の安息日が日曜に変更された」とは、聖書のどこにも書かれていない。もちろん、日曜礼拝への参加義務も書かれていない。)
「飲酒を禁ずる聖書的根拠はない」(聖書に泥酔を戒める箇所はあるが、飲酒禁止とは書かれていない。)
あんまりこんなことを言うと、「イエスの頭には髪の毛があったという聖書的根拠はない」とか、「薔薇の名前」みたいに「イエスは笑ったという聖書的根拠はない」とか(涙を流した箇所はあるが)、そんな話になってしまうけれど…。
実は、「信仰の論拠は聖書のみ」を掲げるプロテスタントは、そのスタート時点から、聖書的根拠のないこと基本に据え、その、聖書的根拠のない基本の上に理論を構築している!
私はそれを非難しようとは思わない。
カトリックが腐敗していた時代、ローマ教会やローマ教皇の権威に立ち向かうためには、さらに上の権威が必要だった。聖書を最高の権威としたのは、ローマカトリックを超えた権威が必要だったからだ。それは、当時の時代の状況の中で、やむを得なかったと思う。
しかし、その後、歴史が進んでも、プロテスタントは16世紀の状況での聖書中心主義の主張を変えなかった。
プロテスタントの、そのスタート時点からの「聖書的根拠のない主張」は主に次の通りである。(私のような素人でさえ、これらに聖書的根拠がないことに気づいた。)
「信仰の論拠は聖書のみ」とは、実は、聖書のどこにも書かれていない。
ルターが主張した基本中の基本のこの言葉に、そもそも聖書的根拠がない。
「信仰の論拠は聖書のみなのに、カトリックは聖書のどこにも書かれていない主張をしているので間違っています」みたいなことを言う人たちがいるが、「信仰の論拠は聖書のみ」と、聖書のどこにも書かれていないのだ。だから、そう言う人は、自分自身が聖書のどこにも書かれていない主張をしている。だのに、その矛盾に気づいていない。
「聖書は66巻である」。これも聖書のどこにも書かれていない。旧約聖書続編をどこまで聖書と認めるのかは教派によって異なる。教派によっては、続編から導かれた見解もある。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」。福音派が好んで言いそうだが、これも聖書のどこにも書かれていない。聖書のどこにも書かれていないのに、カルヴァンはこれを聖霊の内的な確証によって自明であるとし、当然の前提とした。彼は、カトリックは聖書のどこにも書かれていないことを言っていると非難しながら、自分も聖書のどこにも書かれていない主張をした。(だから私は、カルヴァンは「福音派」の元祖かと思った。)
やがて18世紀のドイツ敬虔主義の勃興があり、その影響もあって主にアメリカで信仰復興運動(リバイバル)が盛んになり、種々の新興キリスト教が生じていった。ここに詳しくは論じないが、新興キリスト教の見解の中にも、聖書のどこにも書かれていない主張や聖書的根拠が希薄な主張が見られる。聖書にないどころか、ルターやカルヴァンも言っていない主張も見られる。だから新興キリスト教なのだ。
福音主義は、最初から、聖書のどこにも書かれていない主張を掲げ、宗教改革から敬虔主義や信仰復興、自由主義神学とこれに対抗する原理主義(=根本主義、ファンダメンタリズム)の台頭、原理主義の極端化と、より穏健な新福音主義(福音派)の広がり、福音派の一部の再原理主義化、と進んできた。一方、19世紀以降、高等批評学(歴史的批判的な聖書学)や進化論を基本的には受け入れた自由主義的な陣営は、プロテスタントの主流派(メインライン、リベラル)となって今に至っている。
今日、福音派と主流派は、どちらもプロテスタント教会を名乗りながら別の宗教のようになってしまった。
福音派(自称「福音派」も含めて)は、近年、聖書信仰という言葉を好んで用いるが、聖書信仰と言いながら、宗教改革のスタート時点から「聖書的根拠のない主張」基本に据えた教義を受け継いでいる。
信じるのは自由だ。ただ、プロテスタントの出発点に明確な聖書的根拠はないと知った上で信じているのだろうか。
聖書信仰を称する側は、スタート時点に聖書的根拠がないことを追及されると、「聖霊の働きによって正しい信仰であると確信できます」と言う。
「聖霊の働き」は便利な言葉だ。自分たちの主義主張を正当化するのに使える。聖書にないことも、理論的に説明できないことも、聖霊の働きとして主張できる。要するに、何でもありの、理屈のいらない超理論だ。
「聖霊の働き」だから正しいとわかりますと言うのなら、聖書信仰を標榜するA派と、やはり聖書信仰を標榜するB派とが意見を異にし、激しく対立している場合はどうなのか。聖霊はA派とB派に異なる啓示を与え、別々に導いているとでも言うのだろうか。
種々の面があるとはいえ、16世紀の宗教改革によるキリスト教の健全化を思えば、その業績を正当に評価するのは吝かではない。しかし、改革者らは、最初から聖書的根拠のない主張を掲げていたのである。それは、教皇の権威が、紙の教皇(聖書および聖書解釈の文書)の権威に代わっただけだったとも言えるのである。
(伊藤一滴)
コメント