福音書から察せられるイエスのメッセージと、未来に向かう信仰について
福音書から察せられるイエスのメッセージと、未来に向かう信仰について考えてみる。
前から繰り返して言っているとおり、福音書はイエスの言葉や行動の事実をそのまま伝えている文書ではない。イエス自身が書いたものではないし、イエスのそばにいた人がその場ですぐに書いたものでもない。
福音書は、イエスの伝記や発言集というより、キリストであるイエス(つまり、人々がキリストであると信じたイエス)について語り継がれた伝承が後に編集された書だ。
イエスの没後何十年も経って書かれた福音書が、どこまでイエスの言葉や行動の事実を伝えているのか、実はよくわからない。
では、もうイエスについての歴史的事実は何もわからないのかと言うと、そうでもない。我々は、福音書に、イエスが人々に伝えようとしたメッセージの反映を感じる(※)。それは、伝承と編集の過程を経たものだから、それこそ「ぼんやりと鏡に映ったようなもの」だ。それも、ガラスの鮮明な鏡ではなく、古代の金属板の鏡にぼんやりと見えるような感じだ。
※ たとえば 八木誠一『イエス』、田川建三『イエスという男』、荒井献『イエスとその時代』など。
40年近く前の話だが、予備校生だった19歳の私は、くもりガラスの向こうにイエスを感じるような、そんな感覚で、イエスを求めた。
そこで私が感じたのは、おおらかなイエス、ずばり物を言うイエス、反権力のイエス、庶民の味方のイエス(彼自身が庶民の一人)・・・だった。
私の勝手な想像ではない。聖書を切り刻むように調べる聖書学者でも否定できないイエスを、私は求めた。
若かった私は、そんなイエスに従って生きていきたいと思った。その思いは、今も変わらない。
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あれから私も、私なりに学んだ。
今の私の目からは、イエスはこう見える。
1.「神の国は近づいたのです。悔い改めなさい」と、終末はすぐそこに迫っている、心の方向を転換すべきだと主張した人。
2.「神は天の父です。心から神を愛し、人を愛しなさい」と主張した人。
3.律法主義の支配から人々を解放しようとした人。律法違反と言われるのを恐れずに、穢れた病とされていた人たちをはじめ、種々の病人や障害者、徴税人や娼婦にも接した人。
4.ファリサイ派や律法学者らの前で「権威ある者」として振る舞った人。弱い立場の人には優しかったが、権威や権力の側には断固たる態度を取った人。
これらの結果、イエスは十字架につけられて処刑された。
イエスは1世紀の時代のパレスチナという場所で生きて、行動し、語った。彼はおそらく古代ユダヤ教の中の黙示的な終末論者の一人で、エッセネ派の流れの宗教指導者の一人だったのだろう。おそらく洗礼者ヨハネの門下生または後輩の一人で、のちに独立したのだろう。死海文書で知られるクムラン宗団との関連はよくわからない。荒野で共同生活をしていたクムラン宗団と違い、イエスは弟子たちと共に積極的に町に出かけて行って、教えを宣べながら呪術的な悪霊祓いや呪術的な医療活動をしていた。イエスの支持者は多く、マグダラのマリアをはじめ女性の支持者も相当数いたようだ。それは、イエスが女性を低く見たりせず、人としてきちんと接していたからだろう。
イエスは「こんな不義の世はまもなく終わり、神の国が到来する」と本気で思い、人にもそう言っていたようだ。自分の話を聞いている人がまだ生きているうちに終わりの日が来ると考えていたようだ。マルコ福音書には「ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます」というイエスの発言が記されている(マルコ9:1)。
「神の国の到来というのはイエス様の変容のことです」とか「三日目に復活するイエス様を見るという意味です」とか、一部の保守派や原理主義者がつじつま合わせをしているが、そんな話に付き合っても仕方がない。まもなく起こることについて、「(もうすぐそれが起きますが、その時まで)決して死を味わわない者がいます」と言うのも変だ。終末なんてまだ先のことだと思っているのかもしれないが、そうではなく、ここに立って私の話を聞いている人がまだ生きているうちにこの世は終わり、神の国が到来するのです、という意味以外に取りようがない。パウロの携挙論(?)を意識したマルコの創作の可能性もあるが、私は、マルコ9:1は本当にイエスの口から出た言葉だろうと思う。イエスは黙示的な終末論者で、本気で、すぐに終わりの日が来ると思っていたと考えた方が自然だからだ。その時に来るという「人の子」は、黙示的、神話的なイメージであり、イエス自身のことではない。イエスは終末論者の一人として終わりの時の黙示的な人の子の到来を思い浮かべていたのだろう。
イエスの予想は外れた。終わりの日がいつなのかイエスにも分からなかった。現代のコロナ禍は終末の徴だとか、ロシア軍の侵略は終末の徴だとか、いろいろ語って、間もなく世の終わりが来る、神の審きの日が来ると言って人を脅す人たちがいるけれど、イエスでさえ分からなかった終わりの日が分かるというのも凄い話だ。その人たちはイエスよりも上なのか。イエスより上とは、凄いことだ。
ちなみに、アフリカでの医療で知られるA.シュヴァイツァーは、かなり早くから、イエスは終末論者であったと指摘していた。シュヴァイツァーは植民地主義の手先と言われることもあるけれど、神学・聖書学の分野において卓越した人だった。
イエス自身は、現代風に「教会派なのか社会派なのか」と言えば、社会派だった。
イエスは革命家ではないけれど、自分から町に出向いて、教えを宣べ、悪霊祓いや医療活動をし、積極的に社会に関わる人だった。そして、恐れずに権威や権力を批判する人だった。
イエス自身は、現代で言う「福音派に近いのかリベラルに近いのか」と言えば、リベラルに近かった。
「~と言われているのをあなた方は聞いています。しかし私は言います」
この言葉どおりに語ったのかどうかはわからないけれど、マタイは、きわめて革新的なイエスの精神を書き残している。
神への愛や人類愛、これは今でも多くの人の共感を得るのではないかと思う。たとえ神など信じない人でも、人は互いに愛し合うのが理想だと言われたら、理想はそうだと思うだろう。私は、イエスの教えは愛の教えだと思う。神の御前に人はみな平等だという平等思想だと思う。
イエスは、律法が人を支配するユダヤ教社会で育ち、律法主義の束縛に気づき、律法を否定したり破壊したりせずに、うまく乗り越えようとした。彼は律法を超えることで、律法主義からの解放を説いた。
今も「聖書にこう書いてあるからこうです」と、人を聖書の言葉で縛ろうとする人たちがいるが、文字や文字の解釈で人を縛るのはイエスの教えとは正反対の律法主義の一種だ。聖書から導いた言葉でクリスチャンの生活マニュアルのようなものを作って信者を従わせようとする人たちもいるが、イエスが聞いたら仰天するだろう。怒り出すかもしれない。
イエスなら、こう言いそうだ。
「今の状況下でどうすることが天の父の御心にかなうのか、自分で考え、判断し、行動しなさい。上からこう言われたからとか、マニュアルにこう書いてあるからとか、無批判に従うのではなく、自分の頭で考えなさい」
イエスはなぜ権威ある者のように語ったのだろう?
宗教的な権威が人を支配していた時代、律法主義の束縛からの解放のためには、イエスは自分を、律法で人を縛る人たちより上の権威者とするしかなかったのだろう。それは、中世末期のローマ教会の権威に立ち向かうため、教会の上に聖書の権威を置いた宗教改革者らを思わせる。
(ただし、宗教改革者らも時代の子であった。聖書を66巻としたのも、信仰の論拠を聖書のみとしたのも、時代の状況であり、イエスがそう教えたわけではない。)
イエスも時代の子であった。世の終わりが近いと本気で思っていたイエスは、もう自分の命を惜しむことなく、死を覚悟してエルサレムに向かったのかもしれない。
神の国を宣べ伝え、神と人を心から愛するように教え、律法主義の束縛からの解放を告げて、権威ある者のように語ったイエス。彼は捕えられ、十字架で殺された。
新約聖書にあるように十二使徒のユダが裏切ったのか。それとも「ユダの福音書」が記すように、ユダこそがイエスから最も信頼された弟子だったのか、史実はもうわからない。
パウロは、三日目に復活したイエスは「ケファに現れ、その後十二人に現れた」と言う(1コリ15:5)。十一人ではなく、十二人と言っている。素直に読めば、イスカリオテのユダも含まれることになる。
イエスは殺された。
たが、そこで終わらなかった。
彼は復活したと信じられた。
復活したとされたイエスはキリストだとされ、神格化された。
そして、「イエスの十字架の死は私たちを罪から贖うためのものだった」と信じられるようになった。これが「キリストの誕生」である。
遠藤周作の著書に『キリストの誕生』というのがあるが、ベツレヘムで生まれたとか馬小屋で生まれたとかの話ではなく、十字架で無力に死んだイエスはどのように神格化されて救い主キリストだと信じられるようになったのかを作家の目から描いた作品だ。イエスの誕生ではなく「キリストの誕生」なのだ。この本が歴史的にどこまで正確なのかはともかく、なかなか興味深い作品だ。最初に読んだのは高校生のときだった。こんな本を書く人はクリスチャンではないのだろうと思ったが、遠藤周作氏は誠実なカトリック信者だと知って驚いた。大学生になってからいろいろな教派の教会に行ってみたが、教会の本棚にもよく置いてあった(福音派を除く)。
遠藤周作氏がクリスチャンなら、キリスト教の信仰って何だろうと思った。
キリスト教の信仰とは何かと問われても、とても一言で答えられるようなことではないから、私も簡単には答えられない。
ただ言えるのは、「単なる思い込みは信仰とは言わない」ということだ。
もちろん、マインドコントロールされた状態を信仰があるとは言わない。
それこそ「聖書は無誤無謬」という鋼鉄のヘルメットどころか鋼鉄の甲冑を身にまとい、常識的な話も、筋の通った指摘も、みな跳ね返して特定宗団の教えに籠る原理主義者やカルトがいるが、それは信仰というより思い込みで、現実からの逃避だ。場合によっては陰謀論だ。もしかすると、そういう信じ方をする人たちは、何か、心を病んでいるのかもしれない。
1970年代~80年代、マルクス主義を科学とし、絶対の真理だと信じる人たちがいた。彼らは、絶対の真理を信じていると思い込んでいたから、どんな反論も一切通じなかった。それは、「聖書は無誤無謬」と信じる人たちと似ていた。絶対とは言えないものを絶対と信じ、客観性を受け入れない。それは、対象の偶像化ではないか。
マルクス主義者らは物神崇拝という言葉を使うが、そう言う自分たちが、マルクス、エンゲルス、レーニンらの著書を物神崇拝していたのだ。
マルクス主義者に見られる教条主義も、キリスト教の原理主義も、対象は違っても信じ方がよく似ている。どっちもカルト思考であり、偶像崇拝の一種だ。
カルト思考は論外だが、健全な信仰について考えてみる。
人は信仰とは何かと問うだろうが、健全な信仰は「人とは何か」を問うだろう。「信仰があると言うのなら、あなたは何者か? 何を考え、何を願い、何をしているのか?」と問うだろう。
私は、困難な状況の中で自分から大変な役割を引き受けるクリスチャンたちを見てきた。自分の損得など考えないで、みんなのために黙々と働く人たちだった。その姿を見ながら、彼らを動かす神というものが、本当におられるのではないかと思った。あの人たちが「イエス様を信じます」と言うのなら、私は、それを否定することなどできないと思った。
つまり、私は、信じる人たちの働きを通して神を感じ、キリストを感じた。
それは特定の教派ではなく、プロテスタント主流派、福音派、カトリック、無教会と、立場はさまざまだった。教派に関わらず、みな本当のクリスチャンだと思った。
彼らが信じるイエス・キリストと、歴史的事実として存在したイエスは、その方向性としては、大きくは違わないのではないかと思った。我々の時代とイエスの時代では、時代の背景がかなり違うとしても。
ちょうどその反対のような、「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」や「教派ではなく純粋なキリスト教を信じるクリスチャン」たちにも会った。それは、やたら、罪、悪魔、審き、地獄といった恐怖を強調して人を脅す人たちだった。彼らは、聖書やキリスト教について自信ありげに断定的なことを言うわりには、地獄で焼かれることを恐れてびくびくしていた。何よりも、自分は地獄に行きたくない、救われて天国に行きたいという思いが最優先のようだった。彼らは、困っている隣人のために指一本動かさない人たちだった。それどころか、自分がすべきことからうまく逃げて、人に押し付けたりしていた。年中、他教派や他宗教の悪口を言いまくり、仏教団体の福祉活動を「救いとは無縁」と鼻で笑って馬鹿にするような人たちだった。つまり彼らの「信仰」は、単に、自分が天国に行くための免罪符だった。
私は、この人たちが信じている「神様」はいない、それは頭の中で勝手に作った「神様」だと確信した。福音書から察せられるイエスのメッセージとまるで違うからだ。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』(マタイ7:23)というのはこの人たちのことかと思った。
マインドコントロールされていたのだろう。自分で自分をさらにマインドコントロールして深みに嵌っているのではないかと思える人もいた。
彼らに対し、私も説得を試みたが、次々に鋼鉄の甲冑ではじき返されてしまった。
たぶん、イエスが説得しても、彼らはイエスに向かって言うのだろう。
「あなたは正しい聖書の読み方をしていません」
「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」
「あなたは救いの中にいないようです」
「あなたはサタンの側です」
「あなたは正しい聖書信仰を理解しない気の毒な人です」・・・
彼らには、自分で目を覚ましてもらうしかないようだ。もともと真面目な人がそうなってしまったのだろうから、自分で気づいて、目を覚ましてくれるといいのだが・・・。
そのようなカルト思考の自称「福音派」ではなく、健全で理性的な福音派はどうなのだろう。
これまでも何度も書いた通り、私は福音派の人たちからずいぶんお世話になってきた。恩人である福音派を悪くなど言いたくない。聖書に文字通り忠実であろうとする福音派の見解は、それはそれで、キリスト教の中の考え方なのだと思うし、その信仰は尊重したい。だが、今の私は、福音派の側に加わることはできない。
今の私は次のように考えている。
「現代人が、現代の世界観を持ってイエスの教えに従おうとするのなら、プロテスタントの主流派(リベラル、エキュメニズム派)や現代のカトリックのように、歴史や科学を受け入れ、地球も宇宙もありのままに見るしかないだろう。」
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2022/05/post-2350.html
現代の世界観を持ち、かつ、キリスト教を語るなら、「イエスはキリストである」と信じた古代人が当時の表現で述べたことを、現代人がわかるよう置換して解釈する必要があるだろう。それはつまり、聖書の非神話化だ。
我々は古代人でも中世人でもない。我々は現代の科学を知ってしまった。現代の歴史研究の成果を知ってしまった。人々が聖書の記述をそのまま信じて素朴な信仰心を持っていた牧歌的な時代は過ぎた。我々はもう聖書を文字通り信じることはできない。
今も「聖書を文字通り信じます」と言う人もいるが、聖書がどのように成立したのかを考えても、文字通り信じるような性質の「無誤」の書ではないのは明らかだ。それに、聖書の記述と現代の科学や歴史認識との間に埋めようのない齟齬もある。齟齬をそのままにして、キリスト教は未来に進めるのだろうか。科学や歴史との食い違いを無視して「聖書だけが真理です」と言い張ったとしても、その聖書自体に多くの矛盾点があり、説明がつかなくなる。その結果、聖書のどこにもない話を創作し、聖書の記述と縫い合わせ、矛盾を感じないように見せるパッチワークのような作業が必要になってゆく。あるいは、文脈を無視した独特の聖書解釈に走り、ほとんど妄想のようなことを言い出すことになる。
イエスはそんなことを人に求めたのだろうか。
キリスト教が未来に進むためには、非神話化は避けて通れないだろう。
その前提は、科学的な聖書学の研究成果である。これは、今日の自然科学の研究や歴史の研究と矛盾しない。
誤解もあるようだが、非神話化は、イエスが人々に伝えようとしたメッセージの否定ではない!
(伊藤一滴)
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