現代の世界観を持ってイエスに従うには
ジョン・グレッサム・メイチェン(John Gresham Machen)の本を古書で買ったら、「岡田稔先生よりいただく 神戸改革派神学校〇〇〇〇」と書いてあった(〇〇〇〇は実名、前の持ち主の名前か)。
岡田稔はメイチェンの本を人にあげていたのか。
古書店に出された理由はわからないが、私は、それが岡田稔から贈られた本とは知らずに買った。安かった。
別にメイチェンや岡田が好きだとか賛成だとか言うのではない。
メイチェンの、それこそ原理主義を思わせるような極めて保守的な主張はどういう理屈で成り立っているのか関心があった。
評価は分かれるかもしれないが、日本のキリスト教界では岡田稔はそれなりに有名な人である。その岡田が人に贈った本が、めぐりめぐって私の所に来た。それだけ、日本のキリスト教界は小さい、ということか。
「主流派のクリスチャンは聖書を全面的に信じていないから正しい信仰ではない。正しいのは聖書の記述をすべて文字通り信じる福音派だ」という人がいた。
またか、と思った。聖書のすべてを文字通り信じるなら矛盾だらけになってゆく。まず、歴史や科学と矛盾する。矛盾はないと言い張るためには、歴史や科学の研究を無視することになる。それでも、聖書の記述それ自体に矛盾は残るから、聖書のどこにもない話を作って間を縫い付けてゆくパッチワークのような作業が必要になる。
イエスは人々にそんなことを求めたのだろうか?
別の人から、イスカリオテのユダの死について興味深い話を聞いた。
ユダは銀30枚の報酬でイエスを裏切った。
イエスが罪に定められたと知ってユダは後悔し、祭司長たちに銀貨を返しに行ったが受け取ってもらえなかった。そこでユダはその銀貨を神殿に投げ込み、外に出て行って首を吊った。
祭司長たちはユダが投げ込んだお金で、彼が首を吊った場所の土地を買った。
そこは陶器師の畑で、後に旅人たちの墓地になった。
ユダの体は縄にぶらさがったままになっていたが、誰もユダの体に触れたがらず、おろさなかったので、そのまま土地の売買が行なわれた。土地はユダのお金で買ったのだから、ユダのものということになった。
ユダの体は放置され、やがて腐り、化け物のように膨らんで異臭を放ち、まっさかさまに落ち、腐っていたので真二つに裂け、腐った腹わたが全部流れ出した。
その場所は「血の畑」とか「血の地所」とか呼ばれるようになった。
とまあ、マタイ伝と使徒行伝のみごとな合体話だった。
(マタイ27:3~8 使徒1:15~19)
ちなみに、聖書外の伝承には、ユダの体は膨らみ悪臭を放ち始めた、というのもある。もっともこの伝承だと、ユダが生きているうちにそうなったというが。
私が聞いたマタイ伝と使徒行伝の合体話は、話としては見事だ。
首を吊ったら縄が切れて落ちたとか、遺体は谷に捨てられて、そのとき腹が裂けたといった話より、よっぽど出来がいい。
つじつま合わせは実に見事ではあるが、私は、やはり、イエスは人々にそんなつじつま合わせを求めたのだろうか、と思う。
イエスが人々に求めたのは、
神を愛すること、
隣人を愛すること、
平和を求めること、
互いに愛し合うこと、
神の国は近いと信じて日々を生きること・・・、
等々ではなかったのか。
イエスに従うのなら、聖書の文字にこう書いてあるから従うとか、教会からこう言われたから従うというのではなくて、自分の頭で考えて行動することが大事なのではないか。
「~と言われているのをあなたがたは聞いています。しかし私は言います」(マタイ5章)
私は若い頃、マタイ5章を引用し、
「イエスがそうであったように、是は是、否は否と判断して進むことが、イエスに従うことだと思います」
と言ったら、あるクリスチャンから次のように言われて厳しく叱られた。
「『しかし私は言います』というのはイエス様だから言えることで、一般の人がそんなことを言ってはいけません。教会や牧師先生に従うべきです」
違う。イエスは、言われたことに無批判に従うのではなく、自分で判断し決断し行動することを求めたのだ。言われた通りに従うだけなら、律法主義と変わらない。イエスの教えは、権威に盲従することの否定だ。教会や牧師から言われた通りに従うだけなら、いったい、神は何のために人に理性や知性をお与えになったのか。
それに、教会により牧師により、言うことがかなり違っている。いったいどの教会のどの牧師に従うべきなのか。偶然行った教会や自分の好みで選んだ教会には真理があって、他の教派の主張は間違いなのか。それぞれの教派がそれぞれに正しさを主張するが、両立しない見解もかなりある。それぞれ、聖霊の導きだと言うなら、食い違うのはおかしいではないか。ときには、同じ教派でさえ、教会や牧師同士が対立することもある。聖霊は別々に働き、別々に導いているのか。おかしいと思わないのか。
私は、自分で判断して進むことがイエスに従うことになるのだと思っている。
それに、聖書それ自体、聖書の文字づらを絶対視しないようにと教えている。(「文字は殺しますが、霊は生かします。」2コリント3:6)
「聖書に矛盾を感じたら、聖書のどこにもない話を作って間を縫い付けて、パッチワークのような作業で矛盾を感じないようにしなさい」などと、聖書は教えていない。
聖書は古代人の世界観で書かれている。
実際の地球も宇宙も、古代人が考えていたのとはかなり異なることが今日明らかになっている。
聖書を文字通り信じようとすれば、古代人の世界観をそのまま信じる必要があるが、それはもう不可能だ。
我々はもう、地球は平たく、天界、地上、下界の三層からなると信じることはできない。大空には大量の水があり(水蒸気などではなくて膨大な量の液体の水があり)、ノアの時代には天の門が開いて地球全体が水没した、などと信じることはできない。実際、ロケットで宇宙に行ける時代になっても天の門は見つからないし、地球全体を水没させる量の水も空にない。
現代人が、現代の世界観を持ってイエスの教えに従おうとするのなら、プロテスタントの主流派(リベラル、エキュメニズム派)や現代のカトリックのように、歴史や科学を受け入れ、地球も宇宙もありのままに見るしかないだろう。
メイチェン自身や彼の後継者らは、イエスに従ったというよりも聖書から導き出した自分たちの考えに従ったように思える。
私は、福音派の信仰自体を否定したくないし、実際、否定したりしていない。福音派と言ってもかなり幅があるし、福音派には素朴で純粋な信仰を持つ善良な人も多数おられる。私は個人的にも福音派の牧師先生や信者さん方からお世話になっており、感謝している。
ただし、福音派の信仰と現代の世界観の両立は、どうなるのだろう。うまく両立するのだろうか。我々は、古代人でも中世人でもない。福音派の中に見られる「歴史的・科学的な面でも、聖書を文字通り信じる」とか「進化論を否定する」といった主張には距離を感じる。
まして、自称「福音派」の原理主義者やカルトの主張は「こう書いてあるからこうなのだ」という硬直した律法主義に近く、しかも、単なるつじつま合わせが多く、イエスの教えとはかなり異質だ。
メイチェンには聖書批評学・自由主義神学への反発もあったのだろうが、頭脳明晰であった彼が、なぜ、反動的とも言えるくらい保守的・原理主義的な方向に進んでしまったのか。どういう理屈でそうなったのか。
そもそも人はなぜ、宗教の開祖(キリスト教の場合はイエス)のメッセージに素直に従わず、科学的・歴史的な研究の成果にも素直に従わず、自分たちで原理主義的な教えを作り出し、それを維持し、他の考えを否定・排除する方向に進んでしまうのか。
もう少し考えたい。
(伊藤一滴)
付記:
保守的な福音派の指導者の中には、リベラルなプロテスタントの立場やエキュメニズムに対し、一定の理解を示した人もいる。
たとえば、シカゴ声明にも署名したジェームズ・イネル・パッカー(James Innell Packer)など。
日本だと、村瀬俊夫、中澤啓介、榊原康夫といった人たちも、リベラルな立場の見解をふまえた上で語っていた。
そして、こうした人たちは、「正しい聖書信仰に立つ」という自称「福音派」から非難を浴びることになってしまった。
他派に理解を示そうとする人たちと、「リベラルやカトリックは敵だ」と言い張ってトゲトゲしている人たちと、いったいどちらが誠実なクリスチャンなのだろう?
かつて私を取り囲んで詰問した「正しい聖書信仰」の「福音主義のクリスチャン」たちは、自分たちの主張の正しさを信じ、数の力と言葉の勢いで私にからんできた。私は受けて立ったが、あっちは大勢でこっちは1人だった。途中から、もうこれ以上反論しても無駄だと思ったから、「終わりの日に、仏教徒もイスラム教徒も無神論者もアブラハムの食卓につくときに、あなた方は炎の中で泣いて歯ぎしりすることでしょう」と言って話を切り上げた。だが、後日会うと、また彼らはからんできて、また激論になった。そういうことが何度もあった。もし、当時、カルト問題の相談窓口があったら通報していたと思う。
あなた方が勝ったのではない。
35年経っても、反論したいことは山ほどある。
あのときの人たちとよく似た「正しい聖書信仰」の「福音主義のクリスチャン」たちが今もいる。憎いのではない、目を覚ましてほしい。
参照「誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。」
https://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/07/19/022508
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