そんなイエスについていこうと思った
言うまでもないことですが、福音書は、イエスの行動の事実をそのまま伝えるような伝記ではありません。福音書に記されたイエスの言葉も、イエス自身が書いたものではありませんし、発言の速記録でもありません。イエスの没後何十年も経って書かれた福音書が、どこまでイエスの行ないや言葉を伝えているのか、実はよくわからないのです。
わかっているのは、イエスは、紀元前6~前4年頃にパレスチナに生まれ、30歳くらいのときに洗礼を受けて活動し、紀元30年頃に十字架につけられて処刑されたということくらいで、それ以外のことは、ほとんどわかりません。
紀元70年のローマ軍の攻撃でエルサレムが陥落した後(あるいはその少し前)、イエスはこういうことをおっしゃったのだ、こういうことをなさったのだと書き残した人がいました。書いた人は、イエスはキリストだと思っていたから、キリストについて、そうデタラメなことを書いたとは思えません。
福音書は、イエスについての伝承が後に編集された書ですが、我々は、福音書に、イエスが人々に伝えようとしたメッセージの反映を感じるのです。それは、伝承と編集の過程を経ていますから、くもりガラスの向こうに、ぼんやりとイエスの姿を見るような、そんな反映です。
その程度の、ぼんやりとした姿しか、我々にはわかりません。でも、そのぼんやりした中に見えるのは、おおらかなイエス、ずばり物を言うイエス、反権力のイエス、庶民の味方のイエス(彼自身が庶民の一人)です。「聖書を文字通り信じる」と称して攻撃的な言葉の数々を吐き散らす人たちや、地獄の恐怖をちらつかせる脅迫的「伝道」とは、方向がまるで違っています。
若かった私は、くもりガラスの向こうに、ぼんやりと、イエスの姿を感じ、そんなイエスについていこうと思ったのです。そういう人間を、クリスチャンと呼ぶなら呼べばいいし、そんなのはクリスチャンではないと言うならそう言えばよいのです。それだけのことです。
これが、「あなたはクリスチャンですか」という問いへの私の答えです。
(伊藤一滴)
主要参考文献(「若かった私」の参考文献の一部です。最近の本ではありません。また、人様におすすめする本でもありません。)
波多野精一『基督教の起源』
山形孝夫『治癒神イエスの誕生』、同『レバノンの白い山』
ブルトマン「共観福音書の研究」(『聖書の伝承と様式』所収)、同『イエス』、同『新約聖書と神話論』
ディベリウス『イエス』
コンツェルマン『時の中心』
ボルンカム『ナザレのイエス』
八木誠一『イエス』、同『新約思想の成立』
田川建三『イエスという男』、同『原始キリスト教史の一断面』、同『マルコ福音書上巻』
赤岩栄『キリスト教脱出記』
付記
使徒信条に代表される信条(信仰宣言)をはじめキリスト教の教義の骨子もまた、古代~中世の人たちの世界観のもとで書かれたものです。聖書それ自体の非神話化を言うなら、明文化された教義もまた非神話化の対象ではないか、ということになります。
今も、世のキリスト信者の中には、誰それが「信者」か「信者でない」かを区別したがる人がいます。しかし、それぞれ別な宗教ではないかと思えるほどキリスト教諸派には幅があるし、キリスト教を信じると言っても、いつの時代のどの派のキリスト教をどのように信じるのか、その立場は数えきれないように思えます。ですから、その人が「信者」か「信者でない」か、他者がどうこう言えることではないし、場合によっては、その人自身もはっきりと答えられないかもしれません。
特定のキリスト教の立場から見て「信者」か「信者でない」かなど、さほど重要なことでないように思えます。人生は決断の連続ですが、ひとたび聖書の教えに触れた人間が、決断の状況に立ったとき、どう決断するのか、それが問われるのではないかと思います。
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