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聖書に書いてある出来事の食い違いと、考え方の食い違い その2

2.考え方の食い違い

今回は、聖書そのものに見られる考え方の違いについての話です。
聖書には、「書いてある出来事の食い違い」や「引用された文章の食い違い」だけでなく、「各文書の執筆者による考え方の違い」もかなりあります。

以前書いた通り、聖書を引用して正反対の主張もできます。

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http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/08/post-95f2.html

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/11/post-ef6a.html

同じ箇所の翻訳の違いや解釈の違いだけではなく、聖書の各文書にはもともと考え方の違いがあり、聖書から引用してかなり違う主張ができるのです。
ですから、聖書は読みようでどうにでも受け取ることができて、何とでも言えるのです。

歴史上、パウロの書簡とされた文書が教会の見解や教会運営の指針のようになり、パウロ(およびパウロを称して書簡を書いた人)の考えに沿うように他の文書が解釈される傾向がありました。今も、クリスチャンの中に、すべてパウロ的な視点から解釈しようとする人たちがかなりいます。

もし、パウロ等の書簡をまったく読まずに他の聖書の文書を読んだなら、どうなるのでしょう。
その人は、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ロマ3:28 口語訳)と思うでしょうか。

もし、マタイ福音書だけ読んだらどう思うでしょう。その人はきっと、律法順守も善行も大事だと思うことでしょう。ユダヤ人マタイにとっては律法の行ないも善行も大事だったのです。

引用が長くなりますが、マタイ福音書に記されたイエスの言葉の一例を挙げます。

「25:31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます(ママ)。 25:32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 25:34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 25:35あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 25:36わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 25:37すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 25:40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 25:41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 25:42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 25:43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』 25:44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 25:45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 25:46こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(マタイ 新改訳)

これは「人の子」が来て栄光の位について王となったときの話です。
「人の子」はその人の信仰の有無について何も言いません。「あなたには信仰があるので救われます」とは言いません。

先入観なしに素直に読むなら、人は「最も小さい者たちのひとりにした」その行ないによって正しい者とされ、救われると読めます。そして「最も小さい者たちのひとりにしなかった」者たちが永遠の刑罰を受けるというのです。イエスを信じるかどうかについてはまったく言及されていません。(※1)

この箇所だけでなく、そもそもマタイは「イエスの十字架の死は、私たちの罪を贖うためだった」とか「イエスの十字架の贖いを信じる者が救われる」とか一言も言っていないのです。マタイには、そのような考えはなかったとしか考えられません。もしマタイにイエスの十字架の贖罪という考えがあったとしたら、それを福音書に一行も書かないのはあまりにも不自然です。

「イエス様の贖罪はクリスチャンには自明のことでしたから、マタイはわざわざ書かなかったのでしょう」と反論する人もいるでしょう。では、マタイの描くイエスが、律法を守ることを重んじ、善行を重んじていることとの整合性はどうなるのでしょう。
マタイは、そしておそらくイエスも、律法を重んじると共に、行ないによって人は正しい者とされると思っていたのでしょう。パウロとは根本的に発想が違うのです。パウロの神学はパウロの見解であり、マタイが描いたイエスの見解とは違います。だから、マタイが記したイエスの言葉から、いわゆる万人救済論を導くことも可能になるのです。(※2)

「福音派」と名乗る人たちの中に「人の救いはただ信仰によるのであって、行ないは無関係です」と言う人がいますが、マタイが描いたイエスにはそうした発想はないのです。

もし、マタイ福音書を読んでから途中をとばしてヤコブの手紙を読んだらどう思うでしょう。
ヤコブの手紙から引用します。

「2:14わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 2:15ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 2:16あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 2:17信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 2:18しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 2:19あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 2:20ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 」(ヤコブ 口語訳)


「人の救いはただ信仰によるのであって、行ないは無関係です」と言う人たちは、イエスの発言よりパウロを重んじ、ヤコブの手紙よりパウロを重んじるパウロ信者なのでしょうか?

「聖書はバランスよく読むべきです」などど言いながら、やたら旧約と、ヨハネ福音書と、パウロ等の書簡と、黙示録を重視していませんか? それも自分たちに都合のいい箇所だけ引用し、都合の悪い箇所は軽視(あるいは無視)していませんか?

「福音派」はパウロが特にお好きなようですが、パウロは神ではありません。パウロの言葉の中には時代の制約の中で発せられた言葉も混じっています。女性を低く見る発言、奴隷制を認める発言、性的少数者に無理解な発言、上に立つ(ローマ帝国の)権威に従うべきだといった発言などがそうです。(※3)

共観福音書のイエスの言葉を、いったんパウロらの見解というフィルターにかけて、さらにルター、カルヴァンというフィルターにかけて、さらに自分が属する教派の見解というフィルターにかけて、多くのフィルターを通してから、自分好みにして読んでいませんか?


もし、マタイ福音書の著者とパウロらとヤコブ書の著者とが「人の行ないと救い」についての話し合いをしていたらどうなったのでしょう?
マタイとヤコブは見解がかなり一致したかもしれません。パウロたちとは話し合いが平行線になり、しまいには激論になって喧嘩別れしたかもしれません。

相容れない考えを持つ人たちが書いた文書が、1冊の聖書に収められているのです。(※4)

(伊藤一滴)


※1 「あなたは難民・移民を排除し、壁を作ろうとし、有色人種を差別し続け、次々に嘘を言い、陰謀論で人を惑わしましたが、あなたには信仰があるので救われます」って、神様はおっしゃるんでしょうか?
「あなた飢えと寒さに震えていた人たちを招き入れ、温かい食べ物や飲み物、衣類や毛布を渡して助けましたが、あなたはイスラム教徒だから(あるいは無神論者だから)、永遠の地獄の火の中で永遠に焼かれ、泣いて歯ぎしりするのです」って、神様はおっしゃるんでしょうか?

※2 マタイ福音書の記者はユダヤ人であり、律法に従うことと善行を重んじていました。
イエスが教えた「律法と預言者(の教え)」の頂点は、「心から神を愛することと隣人を愛すること」だというのがマタイの証言です。イエスの十字架の死が描かれていますが、その十字架の死は罪の贖いであったという贖罪論は、マタイには出てきません。まして、贖罪を信じなければ救われないなどと、マタイは一言も言いません。

※3 パウロの名誉のためにも書きますが、パウロと言えど時代の子です。当然、時代の制約の中で生きた人です。現代人の視点からパウロを非難するのはフェアではありません。
また、パウロ書簡の中の女性を低く見る発言は後に書き加えられた可能性もあります。
パウロの「ローマ書」(ローマの信徒への手紙)の末尾の挨拶など、何度読んでも女性を低く見ているとは思えません。もっとも、このローマ書の末尾こそ後代の書き加えと考える人もいますが・・・・。そんなに教会から女性の責任者を排除したいんですかね。

※4 前回も今回も、聖書の常識レベルの話で、何か特別なことを書いたわけではありません。(原理主義者やカルトは別として)一般の教会の牧師や司祭なら、みんな知っているような話です。でも、牧師や司祭は一般信者にこうした話をしませんね。何を恐れているのでしょう。つまずきになると思うのか、教義に反すると言われたくないのか、一般信者は「嘘も方便」のような「方便」だけ信じていればいいということなのか。
もう教会が情報を独占できる時代ではないのです。聖書学の成果は、一般の書籍としても刊行され、ネット上にも数多く流れています。
強い先入観を持って意識して目を閉じ、意識して耳をふさがなければ、当然、聖書の常識が目や耳に入ってきます。
イエスの教えって、「都合の悪い話には目をつぶれ、耳をふさげ」っていう教えなんでしょうか?


かつての教会の見解が後に変更された例はいくつもあります。
一例ですが、教会は、地球は宇宙の中心にあり地球の周りを天体が回っていると考えていました。そんな時代に「地球は太陽の周りを回っている」などと言ったら異端者とされたことでしょう。今は、天動説を主張をする教会はまずありません。自然科学の研究の発達により、教会の側が見解を変えたのです。
歴史的批判的な聖書学の研究成果を無視したり非難したりするのではなく、今日の常識的な聖書学の成果によって、教会の側が見解を見直すべきなのです。

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