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聖書に書いてある出来事の食い違いと、考え方の食い違い その1

1.出来事の食い違い

(福音書は新改訳から引用します。イエスの言葉づかいが丁寧で、好きだからです。他意はありません。新改訳が特に正確だと思うとか、この訳を使っている教派を応援するとか、そういった意図はありません。なお、福音書以外は口語訳聖書から引用します。)

聖書に書いてある出来事も、考え方も、文書によって食い違いがみられます。
まず、出来事の食い違いを、新約からいくつか挙げると・・・・、
イエスの誕生の話はマタイとルカで違う。
イエスを裏切ったユダの最期はマタイ福音書と使徒行伝で違う。
イエスの十字架の死は過ぎ越しの食事の前なのか後なのか、ヨハネ福音書と共観福音書とで違う。
マルコによればイエスは午前9時頃に十字架にかけられたというが、ヨハネによれば昼の12時にまだ十字架にかかっておらずピラトから尋問を受けている。(ヨハネ福音書だけはローマ式の時間表記なので、昼の12時ではなく朝6時だという「新改訳」翻訳側の説明はあまりに不自然。そんな説明は新改訳だけ。)
イエスの両側に磔にされた犯罪人の発言がマルコとマタイはほぼ一致しているのにルカだけ違う。
イエスが死の直前に発した言葉も福音書によって違う。
イエスは酸いぶどう酒を飲んで死んだのか飲まずに死んだのか、福音書によって違う。もし飲んだなら、「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません」(マルコ14:25他)と矛盾する。(「口に受けただけで飲み込まなかったのです」とでも言うのかな?)
神殿の幕が裂けたのは、イエスが死ぬ前なのか、死んだ後なのか、福音書によって違う。(「幕は二度裂けたのです」と言うのかな? それとも「幕は2枚ありました」とでも?)
日曜の朝、イエスの墓に行ったのはマグダラのマリアだけなのか複数の女たちなのか、墓の石は目の前で転がったのかすでに転がしてあったのか、墓に入ったのか外で泣いていたのか、また墓で誰と会ったのか会わなかったのか、福音書によって話がばらばら。
女たちは墓での出来事を誰にも言わなかったのか、弟子たちに知らせに行ったのか、またペトロだけすぐ墓に向かったのか誰かが先に着いたのか、その後弟子たちはガリラヤに行ったのか、エルサレムに留まったのか、これもそれぞれ記述が違う。
まだまだありますが、こうした食い違いは以前から気になっていました。
他にも、出来事ではありませんが、新約に引用された旧約の文章と旧約のその箇所とが一致しない、というのもあります。七十人訳を引用したのでしょうが、時々、記憶違いもあったようです。無誤無謬の聖書の原文に記憶違いによる引用のミスとは?

「聖書は無誤無謬の神の御言葉です。食い違いなど一切ありません」なんて言っている人たちは、一体どういう聖書の読み方をしているんでしょう?まず、強力な先入観があって、すべてその先入観に合致するように話を曲げながら読んでいるのでしょう。そして、たぶんその強い先入観は、かなり保守的な福音派かカルト思考原理主義の「教会」から植え付けられたのでしょう。あるいは、親から先入観を植え付けられた宗教2世や3世の人もいるのでしょう。
無心に、冷静に読むなら、食い違う記述の数々に気づくはずなのに。

私は山形県の田舎町に生まれました。私の家はキリスト教とは無関係でした。私は教会の教えより先に聖書そのものに出会いました。小学校3年生でした。聖書との出会いが先でしたから、特定教派・特定教会の独自の先入観に染まらずに済みました。しかも私の両親はかなりの宗教嫌いでした。若い頃に宗教の勧誘を受け、あまりにもしつこく勧誘されて嫌な思いをしたのだそうです。病人や障害者や困っている人たちを狙って巧みに接近してお金を巻き上げる宗教もあり、不愉快だったそうです。両親にとって宗教は駄目なもの、人の心をおかしくするもので、否定すべきものでした。小学生だった私は、聖書を読んでいるのを見つかると叱られるので、親に隠れてこっそり読みました。
幼かった私は新約聖書に記されたイエスの言葉に心を動かされました。中学生のときに黙示録まで新約聖書を全部読み終えました。日々聖書を読みながら、だんだんに私は、イエスの教えに従って生きていきたいと思うようになっていました。
高校に入ってから旧約と新約が1冊になった聖書を買い、さらに聖書やキリスト教に関する本を読みふけりました。高校卒業後は仙台市内に移り住み、優しく親切な福音派の牧師さんのお話を伺いながら、同じ時期にブルトマン著「共観福音書の研究」や「新約聖書と神話論」、八木誠一著「イエス」などを読んでいました。 それは、くもりガラスの向こうに、ぼんやりとイエスの姿を感じるような、そんな感覚でした。若かった私は、そうした感覚で、そんなイエスについていこうと思ったのです。http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/04/post-9c77.html


今も、私は、ぼんやりとイエスの姿を感じるような感覚です。それこそパウロが言うように、鏡にぼんやり映るものを見て、一部分しか知らずにいるような感じです。
そして、それでいいと思っています。
もし、聖書の細かい点まですべて矛盾なく鮮明にわかったならば、それは世の終わりの時かカルトの教えかどちらかでしょう。まだ世の終わりでない以上、聖書の細かい点まですべて矛盾がないかのように鮮明に説明する人たちは、例外なくカルトやカルト思考原理主義者です。他者と対話せずに「聖書的にはこうです」と一方的に断定し、それが正しい聖書理解だと思い込んでいるだけです。こうした人たちの多くは他の聖書解釈を否定して攻撃します。一見、矛盾なく聖書の記述を説明しているかのようですが、よく話を聞いてみると矛盾だらけです。それを指摘すると火がついたように怒り出すのも同じです。自分の信仰が否定されたと感じるのでしょう。私は、矛盾について言っただけで、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
そうした聖書カルトやキリスト教原理主義にも諸派があり、それぞれの言い分も食い違っていて、それぞれに「聖書的にはこうです」と言い張り、非難し合い、対立しています。「あなた方は互いに愛し合いなさい」というイエスの教えに従う気がないようです。エキュメニズム(教会再一致運動)を否定し、自分たち独自の考えを聖書の真理であるかのようにかたって外部との対立を繰り返しているだけです。
「カルト問題でお困りの方、相談に乗ります」なんて言う人もいますが、そう言う自分たちもカルト思考です。そんなところに相談したら、あるカルト系から別のカルト系へ引っ張られるだけなのに。そうした人たちはキリスト信者なのでしょうか。
独自のパウロ信者?分派信者?教派信者?牧師信者?イデオロギー信者?
いったい何信者なのでしょう?
根底に他者否定があるようです。この他者とは人間だけでなく、考え方も含めての他者です。http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/07/post-8a4e.html


自称「福音派」の人たちは、エホバの証人などの評判の悪い原理主義・カルトとよく似ています。「自分たちは正しく、自分たちの外の世界は間違っている、外はサタンの支配下だ」と信じて、徹底的に他者を否定することが自分たちの存在意義であるようです。
(伊藤一滴)

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