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聖書の言葉を引用して、まるで正反対のことを言うこともできます

聖書の言葉を引用して、まるで正反対のことを言うこともできます。

以前書いたことと重複しますが、聖書を読めば、矛盾するように思える箇所や現代の科学や人権意識に反するように思える箇所が多数あり、理屈のつけようで正反対の結論を導くこともできます。

たとえば、
戦争を否定するか肯定するか、
奴隷制を否定するか肯定するか、
死刑制度を否定するか肯定するか、
女性の牧師を認めないか認めるか、
同性愛者を拒絶するのか受け入れるのか…。
さらに、
女性は教会でベールをかぶるべきか否か、
女性は教会で沈黙しているべきか否か、

もっともっとありますが、聖書を引用してまったく正反対の答えを出すことも可能なのです。

矛盾するように思える箇所や現代人の認識に反するような箇所は、当時の誤った認識なのか、それとも、その時代のその場の状況での正しさなのか、あるいは、時代や場所に関わりなく普遍的な聖書の教えとして受け入れるべきことなのか。

それらは理屈のつけようでどうにでもなるのです。

だから、三層からなる世界観だけでなく(注)、こうした点からも、「何の解釈も加えずに、聖書に書いてあることを書いてあるとおり、文字どおりに信じる」というのは不可能なのです。

万人が認める「聖書的にはこうです」とか「聖書に忠実に従えばこうです」なんて、ありません。
それは「この教派(またはこの私)の聖書解釈ではこうです」とか「この教派(またはこの私)の教えに忠実に従えばこうです」というのを、「聖書」と言い換えているだけなのです。

聖書を引用し、まったく正反対のことを言えるのですから!


「聖書は誤りなき神のことばである」と信じる立場があることを承知しています。そしてそういう立場の中に尊敬すべき方々も多数おられるのを承知しています。ですから、そう信じること自体を非難したりしません。しかし、仮にそうだとしても、ある教派やある牧師の聖書解釈もまた誤りなき解釈だということにはなりません。

聖書の本文校訂の精度や翻訳の正確さの問題もありますが、それ以前の話で、そもそも、聖書解釈をするのは人間なんです。聖書によれば、人はみな罪人(つみびと)であるという、そういう人間なんです。当然人間としての限界があります。先入観に左右されることもあるでしょうし、自分が先入観に左右されているかもしれないという自覚がないことだってあるでしょう。人間の限界や先入観の恐れについての自覚があるのなら、かなり慎重になって、断定的な言い回しは避けるでしょうし、異なる立場を一方的に非難したりはしないでしょうに。

断定的な言い方は、自身のなさの表れなのかもしれません。
どうも、聖書の学びの水準が低く、そのことに劣等感を持つ人たちに断定的な言い方が多いような気がします。

いくら聖書の権威を主張したって、聖書は文字で書かれたものでありそれを解釈するのは人間です。
「聖書的にはこうです」とか「聖書に忠実に従えばこうです」なんていうのは、人間の聖書解釈に過ぎないのです。

聖書はどうにでも解釈できます。中にはひどく主観的な解釈もあります。やたら神の審きや地獄の恐怖を煽る人たちもいますが、おびえることはありません。それは、「その教派、その「教会」、またはその人の解釈」に過ぎません。
別の教派、別の教会、別の牧師から、違う話を聞けるでしょう。

主観的な言葉に支配され、多額の献金を脅し取られたり、人格や生活を破壊されたり、性犯罪などの犯罪に巻き込まれたりしてはいけません。

(伊藤一滴)

(注)ブルトマン『新約聖書と神話論』参照

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