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「プロテスタントの福音派とリベラル派の違い」

「プロテスタントの福音派とリベラル派の違い」というのを、たまたま「Yahoo!知恵袋」で見つけたので引用します。


引用開始

rey********さん

2015/1/28 9:26

プロテスタントの福音派とリベラル派の違いを教えて下さい。


dol********さん

2015/1/28 13:38

・・・・・・・・さん、・・・・・・・・・・・さん、
全然関係ない、というか我田引水な「オレオレ定義」では困ります。自分の考えに反するもの全てに「リベラル」というレッテル貼りをするだけでは、カルトの異名として「福音派」を連呼する輩と同じではないですか。

そもそも自由主義は、聖書主義から派生しているのですよ。自由主義は、聖書の記述と理性との間に、何らかの接点を見出そうとする信念から生まれています。なので、進化論がどうこう言う時点で、それは自由主義なのです。

それに対し、19 世紀に生じた福音派は、実はある意味で伝統主義です。伝統的なキリスト教神学と聖書解釈を守る。その中には三位一体論、救済論、処女懐胎をはじめとする奇跡も含まれています。

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19 世紀までの自由主義神学は、新約聖書の中に「イエスの自己理解」があると考えました。すなわち、イエスは自分を神だとは言ってないし、後のドグマ化した教理など語ってもいないと。

新約聖書から読み取れるイエスの信念や態度を辿ることによって、イエスの優れた人格と自己犠牲の愛を再構成する……つまりイエスに「理想的な人格」を帰し、それをもって新たなキリスト論を打ち立てようとしたわけです。

しかし 19 世紀も終わりになると、そういう「理想的なイエス」を描くことは難しいことが明らかとなり、イエスは以前にも増して「未知なる存在」になってしまいました。実のところ、イエスは自分自身を神だと言ってますからね。

それは何故だったのか。その理由を体系的に論じたのがブルトマンという学者でした。俗にブルトマンは自由主義だと言われますが、そうではなく、自由主義を乗り越えようとした人です。

新約聖書は「教会の目を通して見たイエス」を描いたものです。十字架の苦難を受けて死んだイエスを、復活後の弟子たちの視点から見直したもの。ゆえに、福音書はイエス自身の経験というより、初代教会における個人・共同体の経験を記したものに他なりません。

それゆえ、新約聖書をいくら分析したところで、イエス自身の自己理解など出てこない。歴史的イエスについては「何も分からない」というのが、ブルトマンの根底にあるものです。

しかし、だからこそ、ブルトマンはイエスの言葉と「対峙」しようとします。今や、イエスの言葉は「我らとともにいる」のではない。闇の向こうにいる得体の知れない何かが、我々に真正面から対峙し、語りかけてきます。それをどう理解するかは、読者の経験、意識、自覚に委ねられています。

福音派ならこのことを「御子の霊を通して」と呼ぶでしょう。ブルトマンの弟子たちもまた、実際のイエスと、教会の伝えるイエスとの間には何らかの連続性があるはずだ、という立場にシフトしてきました(そうでないと研究のしようがないですからね)。なので、自由主義神学も徐々に福音派に近づいてきているし、福音派も自由主義との接点があるわけです。

ただ、そういう流れを理解せずに、「オレオレ定義」でレッテル貼りに終始するだけの人々が多いのも、これまた残念ながら事実です。

引用終了(・・・・は引用者が伏字にした箇所 )

出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10141229090


今日偶然にこれを読み、紹介したい見解なので引用しました。
お書きになったdol********さん(原文のまま)もおっしゃるとおり、ネット上では、「「オレオレ定義」でレッテル貼りに終始するだけの人々が多いのも、これまた残念ながら事実です。」


以下は、前に自分が書いた文章からの引用で、私の考えです。

「私は、キリスト教というものは幅のあるものだと思っていますから、明らかに福音に示された義に反する考えや極端な原理主義でない限り、特定の教派を非難したり排除したりするつもりはありません。」

「自分自身の福音の理解としては、聖書批評学と言われる様式史的研究やその後の編集史的研究の方向、近代聖書学の方向を否定することはできないと考えています。」

「私は、イエスが語った言葉どおりではなくても、伝承された言葉の中にイエス自身の思想、イエスが人々に伝えようとしたメッセージは残っていると思っています(※)。※たとえば、八木誠一著「イエス」参照。」

「信仰というのは、証明のしようのないことを信じる部分がかなりあると思います。その度合いの大きさはさまざまだと思います。福音派の信者も、リベラル派の信者も、程度の差こそあれ、科学的判断では証明のしようのない神の存在、十字架の贖い、といったことを信じているわけで、信じるという信仰自体はあまり変わらないのかもしれないと思うようになりました。だから「リベラル派は科学的で正しく、福音派は非科学的で間違いだ」といったレッテルを貼りたくないのです。私自身は実証性を重んじるほうですが、私が思っていることの中にも、証明のしようのないこともたくさんあります。」

出典:http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/10/post-3000.html


結局のところ我々は、鏡に映して見るようにおぼろげなものを見ることしかできないのでしょう。それも現代のガラス製の鮮明な鏡ではなく、金属板を磨いた古代鏡です。鏡面仕上げも古代の技術での研磨です。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(1コリ13:12)

クリスチャンは、この「おぼろげに見ている」ものに、さらに近づきたい、よりはっきり見たいと願う。そこで、「御子の霊を通して」、 あるいは「父なる神の恵みによって」、あるいは「聖霊の働きによって」、それを願う。
(ちなみに、この3つはどう違うんでしょうね。三位は一体というのがキリスト教の主張なのですから。)

神の導きを願い、真実なものへ接近しようとするなら、主流派(メインライン、リベラル)も福音派も、もちろんカトリックも正教会も、違う登山道を通りながら同じ山の頂を目ざしているのかもしれないのです。そして、上へ登れば登るほど、互いに接近してくるのかもしれないのです。

「オレオレ定義」でレッテル貼りに終始するだけの人たちには、言いたいように言わせておけばいいでしょう。彼らが言っていることは、イエスのメッセージとは関係のない話ですから。

(伊藤一滴)


付記1
福音書のイエスは自分自身を神だと言ってます?
言ったかな?
ヨハネ福音書だと、読みようによってはそうも読めるのか。「私と父とはひとつです」(ヨハネ10:30)など。
また、パウロも、キリストは神だって、言ったかな?
もしパウロが「キリストは神である」と伝えたかったなら、もっとはっきりと書いたと思いますよ。有名なローマ9:5です。神を讃えているのですが、その神は、父なる神ともキリストとも、ギリシア語の読みようでどっちにも読めるんです。まあ、天下の田川建三さんでさえ「キリストは神」という意味に訳してますけど。
戦後の口語訳聖書がこの箇所を父なる神への頌栄(しょうえい)と見なして「キリストは神」という意味に訳さなかったので、福音派の人たちは許せなかったようです。それもあって、福音派は新改訳聖書という独自の訳を出したんです。どうも、福音派の思考の根底には現状への批判や否定の精神があり、この新改訳聖書もそうした意識で訳された「対抗改訳」ではないかと思えるのです。まあ、私はそれを承知で、新改訳聖書(初版)使っていますが。
「新改訳って、どうせ福音派の訳でしょ」みたいな感じでまるで相手にしていない人もいるのですが、新改訳の方が口語訳や新共同訳よりうまく訳していると思える箇所もありますし、なによりイエスの言葉づかいがていねいなのが好きです。

付記2
以下は以前書いたものです。よろしければご覧ください。

聖書の非神話化(それでもキリスト教は信じうるのか)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/03/post-0aba.html

そんなイエスについていこうと思った
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/04/post-9c77.html

付記3
7月の後半から暑い日が続いています。
「山形県の山里で古民家暮らしをしています」と言うと、「涼しいでしょう、いいですね」なんて言われるんですが、昼間はかなり暑いです。
朝晩涼しいだけ、まだましですけどね。
家にエアコンはありません。
通気性が良い(要するに隙間風が通る)古民家にいるんで、エアコンをつけても、あまり意味ないかも。

付記4
上に引用したdol********さんは、19世紀~20世紀初頭の自由主義神学も現代のリベラルな神学も、どちらも自由主義(神学)と呼んでおられますが、文章の流れで区別がつくと思います。私自身は、自由主義神学という言葉は19世紀~20世紀初頭の自由主義神学という意味に限定して使っています。この言葉はカルト思考の原理主義らが、自分たち以外のキリスト教へのレッテル貼りによく使っています。

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