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聖書の非神話化(それでもキリスト教は信じうるのか)

最近、聖書やキリスト教に関することを書いていますが、これも自分と関わりが長いので、ある程度、思っていることを書いておきます。

1983年、仙台市に住んでいた私は、山形孝夫氏の著作や翻訳に出会いました。19歳でした。山形孝夫著『治癒神イエスの誕生』、同『レバノンの白い山』、ブルトマン著・山形孝夫訳「共観福音書の研究」などです。福音派の教会で聞いていた話とはまるで違う内容でした。

最初に読んだ『治癒神イエスの誕生』は、「イエスは神の子である、救い主である」という前提から離れ、「奇跡」で病人を癒したとされるイエスを、古代地中海沿岸の遊行(ゆうぎょう)者の一人のとして他の遊行者と比較し、客観化し、原始キリスト教の形成や伝播を論じたものです。護教論のカケラもありません。

『レバノンの白い山』も、古代地中海沿岸で活躍した治癒神たちの話で、死と復活という壮大なテーマは、新約聖書のイエス以外にもみられる実例が、気候風土との関係もふまえて語られます。聖書に出てくる物語は、他に類を見ない唯一の話ではなく、非キリスト教の神話に出てくる類似した物語と比較され、客観化され、相対化されてゆきます。

では山形先生はキリスト教を否定する立場かというとそうでもなくて、当時、宮城学院の先生でした。

それ以前に遠藤周作著『イエスの生涯』と同『キリストの誕生』などを読んでいました。福音書の話とは違い、奇跡など使えない無力なイエスを描いた『イエスの生涯』。十字架で無力に死んでいったイエスが、復活したとされ、神の子キリストと信じられるようになった神格化の過程を描いた『キリストの誕生』。こんなことを書く人はクリスチャンではないのだろうと思ったのですが、遠藤氏が誠実なカトリック信者だと知り、一体どう考えればいいのかと思っていました。

山形孝夫氏の著作や翻訳をきっかけに、ブルトマンの見解、八木誠一、田川建三、佐竹明、荒井献氏らの著作に触れるようになりました。(さらにその後、ディベリウス、コンツェルマン、ボルンカム、タイセン等々。)

福音派が言うように、聖書は文字通り信じるべきものなのか、それとも多くの学者が言うように、学問的研究をふまえて非神話化すべきものなのか。

聖書は古代人の神話的な世界観の中で書かれています。古代人は、地球が丸いことも、地球が太陽の周りを回っていることも知りませんでした。病原菌やウイルスの存在も知らず、悪霊の仕業で病気になると考えていた人たちです。奇跡で病気を治したり死んで復活したりするのは、聖書の世界だけではなく、古代人の世界観では珍しくない出来事でした。聖書の著者は、嘘を書いたというのではなく、古代人にとっては自然であり常識的なことを書いたのです。聖書にみられる古代の神話を文字どおりの事実として受け取るのではなく、当時の神話的な表現として、その中に意味を悟るべきだ、という考え方があります。聖書の非神話化です。

私は、福音派の主張より聖書学の学問的な研究のほうが正しいと思いました。聖書学の膨大な論考を「福音的でない」とか「信仰的でない」とか「聖書より人間の理性を上に置いている」とか言って簡単に否定するのは無理があると思いました。そして、歴史的事実として存在したイエスという人と、信仰の対象であるキリストは分けて考えるべきだという考えに納得しました。専門的な言葉で言うと、史的イエスとケリュグマのキリストの峻別です。それは目からウロコが落ちるような体験でした。

ブルトマンやその後の研究者らの見解には、いろいろ相違もありますが、大きな枠組みとして見れば一致点が多く、この流れで聖書を考えれば、現代科学と矛盾しないし、現代の考古学や歴史研究とも矛盾しないのです。そして、聖書それ自体に多くの矛盾があることも、説明がつくのです。

「聖書に矛盾点など一切ない」と言う人もいますが、これは、かなり苦しい説明をしないといけなくなります。たとえば、これはほんの一例に過ぎませんが、イエスを裏切ったユダはどうなったのか。マタイ福音書だと首を吊って死んだというし、使徒行伝だと真っ逆さまに落ちて腹が裂けてはらわたがみな出たといいます。どっちが正しいのか。「矛盾はない」と言う人たちは、首を吊ったらロープが切れて体が落ちて腹が裂けたのだなどど言うけれど、ロープが切れたなんてどこにも書いてないし、だいたい、真っ逆さまに落ちてはらわたがみな出るくらいなら、かなり高い場所から落ちたのでしょうが、マタイ福音書にはユダが高い場所から落ちたなんて一言も書いてないし、そんなに高い場所で首を吊るのも不自然で、苦しい説明になります。他にも、首を吊って死んだユダの死体は谷に投げ捨てられ、そのときに腹が裂けたのだと言う人もいますが、使徒行伝の記述を素直に読めば、ユダは自分が不正な報酬で手に入れた土地に落ちたと解するのが自然で、谷に落とされたなんてどこにも書いてありません。「矛盾はない」と言い張るためにはユダは谷底に土地を買ったということになって、想像たくましく次々に話を創作しないといけなくなります。

ところが、「ユダの最期についての歴史的事実は誰もわからないが、系統の異なる複数の伝承があり、マタイ福音書の著者と使徒行伝の著者がそれぞれに別の伝承を採用した」と考えれば説明がつくのです。口承文学に当てはまる伝承論は聖書にも当てはまります。

「信仰のためには古代人の世界観も一緒に受け入れないといけないのか」、そして「他の学問を否定しないと成り立たない聖書理解が正しい理解と言えるのか」と、若かった私は思いました。

もう一つ、これも有名な話なので例にしますが、「天地創造を信じて進化論を否定する」といった「信仰」のあり方にも疑問を感じたのです。聖書に出てくる年数を計算すると、天地創造は紀元前4千年頃になるそうで、今から6千年ほど前になります。地球も太陽も今から約6千年前に造られているので、それ以前はなかったということになり、現代の宇宙物理学は否定されます。古生物学、考古学、歴史学、ほか、種々の学問を否定しないといけなくなります。そうやって聖書に書いてあることはすべて書いてある通り事実だと主張することが、現代を生きる人にとってふさわしいことなのでしょうか。30年前も、今も、私の思いは変わりません。

福音派と言っても一枚岩ではなくて、内部にはいろいろな方がおられます。仙台で、話を聞いた牧師さんなど、穏健な方でした。福音派の教会には、何も悪い感情はありません。それどころか、親切にしていただいて、感謝しています。福音派の人たちの素朴で純粋な信仰心や、他者に愛をもって接する態度が好きです。私はアーミッシュも好きだし修道院も好きです。でも、好きであるというのと、自分もそれに加わりたいと思うのは別な話です。

私は多くを知り過ぎてしまい、もう、福音派の世界には入って行けません。でも、それはそれとして、福音派の立場は尊重したいと思います。賛成はしません。でも、尊重はします。それに私は、リベラル派もカトリックも否定したことなどありません。(困るのは、極端な原理主義やカルト、キリスト教を自称するインチキ宗教です。インチキ宗教は、人格を破壊します。福音派と原理主義は、重なる部分もあるのですが、私は分けて考えています。http://yamazato.ic-blog.jp/home/2016/12/post-7305.html

聖書を科学の目で徹底的に切り刻んで徹底的に非神話化して、それでもなおキリスト教は残るのか、キリスト教は信じうるのかと考えていました。「タマネギを徹底的にむいたって、芯もタネもないよ。聖書の神秘は神秘としてそのままにしておいたほうがいい。むいてはいけないよ」と言う人もいました。私は19歳~20代でした。

(続く)

(伊藤一滴)

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