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原理主義やカルトの側から世界はどう見えるのだろう

原理主義やカルトの側から世界はどう見えるのか、これは、そうした集団を退会して目を覚ました人の証言が確かです。私も、脱会者の証言をいくつか読みましたが、それまで信じてきたことを捨てて、集団の側からは裏切者扱いされ、そうとう苦しい思いをなさったことと思います。特に、子どもが気の毒だと思いました。親が原理主義やカルトになってしまうと、子どもは幼少期からその影響を受けて育ってしまいます。社会生活に影響が出てしまいますし、ゆがんだ世界観から抜け出すのはとても大変だろうと思います。

私自身は原理主義やカルトに入信した経験はないのですが、そうと知らずに、原理主義(あるいはカルト)っぽい「教会」に行ったことはあります。

10代でした。キリスト教の教派について、何も知りませんでした。

たまたま小学校3年のときに、聖書を配っている団体のかたから新約聖書をいただいて、読み始めたのが聖書との出会いでした。中学生の頃には新約聖書全体を読んでいました。読んでいて気になる箇所もあったし、教会で話を聞いてみたいと思いました。それで、自宅から行ける範囲にある「キリスト教会」に行ってみたのです。何の予備知識もありません。建物に十字架が掲げられ、「〇〇〇教会」と書かれた看板があるから、当然、キリスト教の教会だと思って行ったのです。

「牧師」と称する人が笑顔で迎えてくれました。どんな話をしたのかよく覚えていないのですが、最初の印象が良かったのです。礼拝にも誘われ、次の日曜礼拝に出てみました。信者さんたちも歓迎してくれて、なごやかな雰囲気でした。だから、また行きました。新来者を歓迎して迎え、その後、少しずつ正体をあらわすことを後から知りました。

私は、情報が限られた田舎で育ち、普遍的なもの、世界的なものへあこがれていました。たまたま聖書を読み、普遍的な教えを感じ、教会へ行ってみたいと思ったのです。教派のことなど知らずにその「教会」に行って、受け入れてもらった気になっていたのです。

「平和島」という詩を読んだときに、中学~高校生の私はまさにその船に乗りかけて、乗るのをやめたことに気づきました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/11/post-e773.html

これまでも書きましたが、彼らの正体が見えてくるとこんな感じです。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2016/08/post-68d2.html

上記はある程度して、気づいてから思ったことです。なにせ最初の印象が良かったし、他のキリスト教の教派を知らないので比較のしようもなかったのです。

その「教会」の言うことが全部おかしいなら、こっちも気づいたでしょうが、彼らはいいことも言うのです。「すべての暴力は悪です」とか「悪に悪で報いてはいけません」とか「三浦綾子さんの『塩狩峠』はいい本だから、読んでみるといいですよ」とか。でも、そういったいい話の中に、時々、あれっ?て思う話も混じるのです。

時に違和感もありましたが、でも心のどこかに、この「牧師先生」や「信者さん」たちの言うことは正しいのかもしれない、という思いもありました。私は10代で、未熟でした。結局、深入りしなかったのは、すべての奇跡を文字通りに信じる主張や進化論否定の主張、また、社会的・政治的な問題への極端な無関心、自分たちの立場以外への非難(それも無知や誤解に基づく非難)などについて行けなかった、というのもあります。

それに私は、すでに新約聖書を読んでいました。そのときは意識していませんでしたが、聖書に示されたイエスの姿勢とその「教会」の教えのズレに、心のどこかで気づいて、何か変だと感じていたのかもしれません。

あのときの、「もしかしたら正しいのかもしれない」という気持ちを思い出してみます。そのまま、あの人たちの世界観に入って行ったら、世界はどう見えていたのだろうかと想像してみます。
「他宗教・他教派は間違っている。私たちの外の世界はサタンの支配下だ。外の世界の人たちは敵だ。」 
そんな風に見えていたのではないかと思います。

彼らは、自称「福音派」、自称「正統プロテスタント」でした。私は、彼らの主張、価値観を受け入れませんでした。つまり、「立派な船」に乗りませんでした。乗っていたら、私もそうした「伝道」に加わり、心がぼろぼろになっていたかもしれません。

(一滴)

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