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聖書に書いてあることをそのまま信じようとする反聖書的な生き方

もう少し、原理主義やカルトのことを書きます。

「どうしても満たされない承認欲求・世の中に対する強烈な敵意とコンプレックス・恐怖から来る支配欲・病んだ心を埋める為に使う使命感・・・など、そういう自分の心の闇を、直視する事が出来ない程に傷付いた人にとって、カルト化した教会は、本当に救いの場であるのだろうと感じます。」(「metanoiaxの日記」2018-2-26より引用)

キリスト教原理主義や聖書カルトめいた人たちは地獄(ゲヘナ)をすごく恐れています。地獄が怖くて仕方ないから、聖書に書いてあることを書いてあるとおりに信じることで地獄を免れようとします。そういう信じ方自体が反聖書的なのですが、気づいていません。そして、自分が人を支配すれば、支配下にある人たちも地獄行きを免れると思うから、人を支配しようとするのです。恐怖から来る支配欲です。それこそ、マインドコントロールの手法でも何でも使うのです。地獄に堕ちる魂を救うのだ、正しいことをしているのだ、自分たちは聖書を文字通り信じているから真理の側にいるのだ、という使命感に燃えて。自分の心の病みを見たくないから使命感に燃えるのでしょうが、現実を見ていませんから、患部を放置したまま鎮痛剤で痛みを麻痺させて活動しているようなもので、傷は癒えません。
マルクスが言った「宗教は民衆のアヘン」という言葉は、すべての宗教に当てはまるわけではありませんが、こうした人たちには当てはまるようです。

原理主義者や聖書カルトにとって、この世はサタンが支配する邪悪な世界ですから、邪悪な世界に関わっても仕方がないのです。だから、社会問題にも政治にも無関心なんです(この、社会的・政治的なことへの無関心はエホバの証人と似ています)。
彼らは「・・・神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)という言葉をよく引用するのですが、神の国というのは救われた人が死後に行く楽園のイメージですし、神の義にかなう生き方とは、地獄を恐れ、この世の社会や政治に関わりを持たず、聖書に書いてあることを書いてあるとおり、文字どおりに信じようとする生き方です(やはり、エホバの証人と似ています)。
それは、大局を見ないで「こう書いてあるからこうなんだ」と自分の思考を停止して文字に縛られて生きる生き方です。聖書それ自体、そういう生き方を人に求めていません。むしろ「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(2コリント3:6)と、文字に縛られることを戒めているのです。

「私たちは正統プロテスタントです」「福音的な教会です」などと称する原理主義者・聖書カルトの文字による縛り(実際はその文字を解釈する「教会」や「牧師」による縛り)は、聖書に忠実どころか、反聖書的で、聖書が求める生き方とは方向が逆なのです。彼らはエホバの証人を異端と呼んで厳しく非難しますが、たぶん、近親憎悪でしょう。よく似た発想ですから。

原理主義者やカルトは「私たちは正しい聖書解釈をしています」と言うでしょう。だったら、なぜ教派に分かれ、同じ教派の中にさえ、派閥のようにグループが出来てゆくのですか。
「私たちのグループ」が正しく、「彼らのグループ」が間違いだからですか。
逆から見たら逆に見えますよ。

実は、聖書は、解釈のしようでどうにでもなるものなのです。屁理屈の解釈で何とでも言えるのです。
だから、「福音派」「聖霊派」と名乗る教会、特に小さな教団や本部を持たない単立教会の中で、カルト化した「牧師」の指導で、むちゃくちゃな解釈による暴走が起きたりするのです。

目を覚ましてください。

(一滴)

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