「均質化」した中学校
私の息子たちが中学生だったときのことを思い出すと、「中学校って何?ロボット製造工場なの?」って思いがありますね。 教師もそうだけれど生徒たちも、鋳型に流し込まれたロボットみたいに均一化されている。大部分は悪い人ではないけれど(中には困った人も少しいるけれど)、余りにも、均一化・等質化されていませんか。 どこを切っても同じ顔が出てくる金太郎飴みたいです。しかも、忙しすぎます。教師も、生徒も、保護者まで、忙しすぎます。書類も行事も飽和状態ですよ。完全に消化不良を起こしている。行事を楽しむとか、終わってから余韻を感じるとか、そんな余裕、ないんだ。はいこれ、次これ、その次はこれ、みたいな感じです。そこにまた、新しい書類だの、今年からの行事だのが割り込んでくる。もううるさいってくらいやってくる。増やすんじゃなくて、減らせよな、と思う。どうしてこんなに多くのことを詰め込まれるんだろう。みんな忙しすぎて疲れ切っています。だから、表情も暗い。 中学校の部活の問題は、これまでもさんざん言われているのに、改まらない。部活のために中学校があり、部活をするために中学校に行き、それまでの間、授業にも出る、みたいな感じです。とにかく、部活動に拘束される時間が長すぎます。試合前の運動部だと、夜の9時過ぎまで練習なんてあたりまえ。土日祝日もほぼ丸一日部活です。田舎だからかそんな極端なことをするのかと思ったら、全国紙でも中学校の過度の部活が問題視されているから、けっこう広範囲に部活漬けをやってるんでしょう。でも、改まらない。 部活がなければ行き場のない生徒がいるんでしょう。「部活は非行防止に役立つ」と信じている人たちがいるし、「一生懸命部活をやれば、進学や就職に役立つ」と思っている人もいるようです。それが事実かどうか、私は客観的な検証を見たことがありませんけれど・・・・。運動部で活躍し、スポーツ推薦で進学する人はいますが、要は進学先の学校の広告塔となって(場合によっては勉強そっちのけで)スポーツに打ち込む学校生活が待っているわけで、それがその人にとっていいことなのかどうなのか、疑問もあります。就職に関して言えば、部活に打ち込んだことと職業の能力を発揮することが別のものであることぐらい、採用担当者は当然わかっていると思いますけれど。 中学校のことを思い出すと、保護者にはある程度ばらつきがありましたが、教師たちは実に均一化されていました。「私の親も教師でした。私も、自分の親と同じ地元の進学校から地元の国立大の教育学部に進みました」みたいな人ばっかり。それなりに頭のいい人たちで、うんと勉強もしているから、勉学に関しては広い知識を持つ人たちではあるけれど、人生経験の幅はうんと狭い。教師以外の生き方にあまり接していませんから。少数の例外はいますが、多くは余りにも粒ぞろいで、金太郎飴的な教師陣です。悪い人たちではないですよ。同じような経歴で、他の職業を経験したこともなければ、地元を離れて暮らしたこともなく、回り道をしたこともない、大きな挫折を経験したこともない、そして日々の激務で疲れ切っているというだけで。 私が小学生・中学生のときの教師には、元軍人とか、旧制専門学校卒とか、旧制大学卒とか、いろんな人がいました。まあ、頓珍漢な教師や暴力教師も中にはいたけれど、今よりずっとばらけていました。あれから30年、40年とかけて粒ぞろいになったんですね。そして、私が子どもの頃の学校って、夕方になれば先生たちはみんな帰ってました。先生が生徒たちに「お~い、帰れよ~」って声をかけて、先生たちもみんな帰っていて、当番の先生が最後に鍵を閉めて。夜になっても先生が学校にいるなんて、特別な場合以外はなかったですよ。今は、夜の学校に先生たちがいるのが当たり前で、先生に会って話をしたければ夜の8時とか8時半に行けば会ってもらえる。今の先生たちは忙しすぎます。それも言われてるんだけれど、改まらない。 それと、気になっているのは、タテマエの横行です。ま~あ、みごとに本音とタテマエを使い分ける。社会がそうだから、社会に出ていく訓練としてそうなのかもしれないけれど、自分たちが言っていることの矛盾に平気でいられるんだろうか。「部活をがんばれ、宿題は全部やれ、睡眠は十分に取れ、朝食はしっかり食べてこい」って、できるわけないだろう、それって。まじめな先生たちは心を傷めているのかもしれません。心を病んで休職する先生や不登校になる生徒のほうが正常に思えてきます。いつまで続くんだろう。行くところまで行って、終わるのかな。でも、問題は問題だと指摘し続けます。
(伊藤一滴)
コメント