« 高校受験の息子へ | メイン | 旅立つ息子へ »

パソコンを買い替えました

1990年代の初め、NECのPC-9801が主流だったときからパソコンを使っていますが、ずいぶん変わりました。 処理能力も記憶容量も比べものにならないくらい巨大化し、機械や媒体は小さくなりました。最初に買ったパソコンは当時のお金で約40万円したのですが、ハードディスクが内蔵されておらず、フロッピーディスクのドライブ装置だけでした。今では考えられないような話ですが、当時はフロッピーディスクだけでパソコンを動かすことが出来ました。一太郎などのワープロソフトも、図面を描くためのCADのソフトも、フロッピーに入っていたのです。作成した文書や図面の保存もフロッピーでした。ハードディスクも売られてはいましたが、40メガバイト程度で(40ギガバイトではありませんよ!)しかも高価でした。それが100メガ、500メガ、1000メガ(=1ギガ)と、数年でどんどん大きくなって価格も下がってゆきました。私は、安くなったと思って500メガのハードディスクを買ったのですが、それでも5万円くらいでした。90年代の半ばに1ギガバイトのハードディスクが発売されたときは、そんな巨大な容量を一体何に使うのかと思ったものですが、今、人の指や爪ほどのメモリーに何ギガも入る時代を迎え、感無量です。 ウィンドウズ以前のOSはMS-DOSが標準的でした。MS-DOSは使いにくく、操作が楽なマッキントッシュ(Mac)も買って用途に応じて使い分けていました。Macは使いやすいのですが動作が不安定で、その割に高価で、しかも、実用的に使える業務用のソフトも限られていました。世の中はバブルで、お金のことなどあまり気にしませんでしたが、今思えば、パソコン関係にはずいぶんお金を使いました。 あれから20数年経ち、上記の話など昔話のようになりました。

私は今、パソコンを買い替えたことによる嬉しさのようなものが、あまり感じられません。処理能力も記憶容量も巨大化し、機械や媒体は小型化しています。価格も驚くほど安くなりました。でも、それほど嬉しくないのです。 一つは、自分で設定して自分のパソコンにしていく喜びが薄れています。ユーザーはメーカーが組み込んだものをただ使うだけのようになりました。誰でも使える機械になり、使いこなす技術を磨いて向上してゆく喜びのようなものが感じられません。90年代の初め頃はパソコン通信につなぐのも一苦労でしたが、当時は、わりと紳士的な会話がなされていたように思います。それが誰でも参加できるインターネットに代わり、ネット上には暴論や犯罪も渦巻くようになりました。 自分でプログラムを組むこともなくなりました。90年代は、簡単なプログラムを自分で組んでいたのですが、もう、専門家でないとプログラミングができないくらい難しくなりました。しかもいろいろなソフトが初めからパソコンに入っているし、市販品もあるし、無料で入手できるものも多く、自分でプログラムを組む気も失せました。なんだか自分自身が、指定された電子制御に組み込まれていくような感じで、パソコンを使うことに息苦しささえ感じます。 私は、人をがんじがらめにする世の中に抵抗してきたつもりですが、日本中の大多数の人が使っている機器を自分が使わないのも不自由で、電子機器に縛られる不快さを感じながらも、どのあたりが妥協点か、迷っているところです。電子機器による支配を批判する言説を、電子機器そのものであるパソコンを使ってインターネット上に書くというのも矛盾なのですが、いまのところ、仕方ないです。

2005年4月、このブログを始めたばかりの頃に「パソコンで失う時間」というのを書きました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2005/04/post_c0f1.html

9年たっても私が言いたいことは何も変わりません。状況はもっと悪くなっているかもしれません。 (伊藤一滴)

 

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。