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地獄に行けるのは「福音派」くらいかと思っていました(改訂版)

若い頃、「福音派」以外で地獄に行く人なんてほとんどいないのではないかと思っていました。

今の私の考えではありません。
今の私は、「天国、地獄、世の終わり、死者の復活、キリストの再臨、最後の審判と言った話は、みな、神話的な世界観の中に生きていた古代人の神話的な表現だ」と思っています。(「古代人の神話的な表現だ」と言っているのであって、意味がないと言っているのではありません!)

神話だから、信じるに値しないとか、価値のない話だとか言うのではありません。聖書は私たちに普遍的なメッセージを与えます。私は、神話的な世界観の中に生きていた古代人が神話的に表現したことを、現代科学の世界観によって現代人が受け入れられるようにすべきだと思っているのです。

現代人が現代の世界観で聖書を再解釈することは信仰の否定ではありません。
私は、キリスト教の信仰を否定しようとは思いません。

参照 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/02/post-2beb.html


古代や中世のクリスチャンの多くが信じていたことの中には、今は否定されていることもあります。

たとえば、

「地球は宇宙の中心にあり、太陽や月や星は地球の周りを回っている」

「地球は平らであり、海をどんどん進んで行けば端がある」

「病気は悪霊のように人の体の中に入って来たり出て行ったりする」(病原菌やウイルスの存在を知らなかった)

「女性は罪の誘惑に弱く、理性的でない、学問に向かない」

こうした「過去の誤った認識」は、聖書から導かれたり、聖書の記述によって正当化されたりしていました。
近現代のクリスチャンは、人知の発展の中で過去の誤った認識を克服していったのです。

私は、20世紀の多くのクリスチャンが本気で信じていたことの中にも、克服すべき課題があると考えています。たとえば、「自殺者は必ず地獄に行く」とか、「同性愛者は地獄に行く」、「離婚は絶対禁止」などの考え方ですね。他にもいろいろありますが。


聖書の各文書には、かなりの考え方の違いが見られますから、聖書の一部分を引用すればかなり違うことも言えます。それこそ理屈のつけようで何とでも言えます。誰かが「聖書的にこうです」と言えば、それと正反対のことを「いいえ、聖書的に正しいのはこうです」と言えるのです。(※1)
「聖書にこう書いてありますから、人は死んだらこうなります」なんて、誰も断定できません。


20代の頃の私は、もう少しリアルに天国や地獄を想像していました。

地獄があるのなら、誰が地獄に行くのだろうと考えていました。

「イエス様の十字架の贖いを信じる人だけが天国に行き、それ以外の人はみな地獄に行きます」といった「福音派」の説明には、違和感がありました。そういうことを強く言う人たち自身が、イエスの教えに従っていないように思えたからです。
彼らは独善的で、排他的で、不寛容で、攻撃的で、自分本位に見えました。理屈が通る話より、強い先入観で、感情的・一面的な話をしているように見えました。
「聖書に書いてあることをみな書いてあるとおりに信じています」なんて言いながら、その引用は恣意的で、都合よく引用し、都合の悪い箇所は無視しているようでした。聖書のどこにも書かれていない話や、キリスト教の伝統にない独自解釈まで、絶対であるかのように語っていました。

困っている人がいても知らん顔で、社会の諸問題にも無関心で、「世はサタンの支配下です」「もうすぐ世の終わりが来るのですから、世にかかわっても意味がありません」みたいな感じでした。
やたら罪や悪魔や地獄の恐怖を強調し、人をおどして「伝道」しているようでした。
そういう態度ややり方を批判すると、みんな火がついたみたいに怒り出しました。

一般の福音派のことではありません。一般の福音派には善良で誠実なクリスチャンがたくさんおられます。愛の心で人に接し、裏も表もなく、報酬を求めずに困難な役割を引き受けてくれるような人たちです。いい人たちです。私もいろいろな形でお世話になり、感謝しています。
ここで、かぎ括弧をつけて「福音派」と書くのは、そうした一般の福音派ではなく、自称「福音派」の原理主義者やカルトのことです。


二十歳の頃の私はこう考えました。

人はみな罪人(つみびと)だから地獄に行くというのなら、罪人とはどういう人なのか知る必要がある。

それは聖書に書いてあるというなら、聖書を知る必要がある。

この世の警察や裁判所だって、法律を知らずに違反した人を重く罰したりはしない。その人は法律にそう書いてあると知らなかったのだから、そもそも裁かれないか、裁かれてもその罪は軽い。

まして神様は、聖書を知らずに聖書に書いてあることに反した人を重く裁いたりなさらないだろう。

神様が重く裁くのは、聖書を熟知しながら従わなかった人たちだ。

ということは、まさに「福音派」がそれに当たる。彼らは暗記するくらい聖書を読みながら、イエスが求めることには従わない。

地獄に行けるのも能力だ。誰にでもそんな能力があるわけではない。生まれたばかりの子や重い知的障害を持つ人にはそんな能力はないのだから、地獄には行けない。

異教徒や無神論者も、その多くは聖書を知らないのだから地獄には行けない。

現代のリベラルなプロテスタントや一般の福音派、無教会、カトリック、正教会などで、聖書を知っている人たちの多くはイエスに従っているから、地獄には行かない。

ということは、現代において地獄に行ける人のほとんどは「福音派」に違いない。

地獄のフタを開けてみたら、中にいるのは「福音派」の牧師や信者がほとんどで、それ以外の人はあまりいないのではないか。

そうなふうに想像していました。


別に私はスウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)派ではありませんが、若い頃、スウェーデンボルグの著書の日本語訳を読みました。
スウェーデンボルグは、神が人を地獄に突き落とすのではなく、地獄に行く人は自分から行くと言うんです。なるほど、その説が正しいかどうかはともかく、そういう考え方もあるのか、と思いました。(※2)
その考え方で理屈をつければ、人は生きていたときに求めていたものを死んでからも求めるのでしょう。神の愛の天国より、利己的な世界を好ましく思うから、死んでからも利己的な世界(つまり地獄)に向かって行く。
独善、排他、不寛容、攻撃などのない天国に向かうより、地上にいたときの自分の思考や行動に近いものを求めて地獄へ向かって行く。

もしそうなら、自分から地獄に行く人は、どんなに止めても行くのでしょう。「そっちは地獄ですよ。行ってはいけませんよ」って、たとえイエス様が強く止めてもそれを振り切って行くのでしょう。何とか止めようとするイエス様に向かって「誰ですか、あなたは。変なことを言わないでください、あなたの言うことは間違っています」「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」「あなたは正しい聖書の読み方をしていません」「あなたは救いの中にいないようです」などと言いながら、地獄に進んで行くのでしょう、きっと。

もしイエス・キリストが今の世に来られたら、その本物のイエス様に向かって、「あなたは偽キリストです! 私たちは正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャンだからちゃんと見抜けます」「あなたは聖書の教えに反することを言っています」「それは異端の考えです」とか言うんでしょう。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』みたいです。まあ、『カラマーゾフの兄弟』は「福音派」の話ではありませんが、本当のイエス様を異端視する「正しいキリスト教信仰」の発想は似てます。イエス・キリストを利用してある種の集団を作ってしまうと、その集団を維持するために、本当のキリストは邪魔なんです。

そんなふうに、イエス・キリストに逆らって地獄に行ける人は限られていると思ったんです。異端審問や魔女狩りが横行した中世末や近世はともかく、現代の世界で地獄に行けるのは、せいぜい「福音派」くらいかなって思ったんです。
若い頃の話です。

今の私は「誰が地獄に行くか断定できる人は誰もいない」と思っています。
もし誰かが断定していたら、その人は、単に自分の主観でそう言っているだけです。


付け加えます。
ある種の聖書解釈の立場から、世の終わりの時はこうなると具体的に語る人たちがいますが、成り立たない主張です。
理由は以前書きました。

キリスト教原理主義者たちの主張の矛盾
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2025/01/post-eec3.html
特に「4.空中携挙のときが来る?」参照

世の終わりの時にどうなるのかなんて、神様以外の誰に分かるのでしょう。
「それは聖書に書いてあります」と言ったって、そんなのはどう読んでどう理屈をつけるかで、何とでも言えます。実際、原理主義の諸派の主張だって一致していません。キリストの再臨と千年王国と、どっちが先に来るんですか? はっきり言いますが、千年王国というのは古代人の神話的なイメージによる表現であって、未来に起きる出来事の予言ではありません。そもそもが神話的な表現なのですから、古代人が神話に託した思いを読み取るべきであり、千年王国はいつ来るのかといった議論には意味がないのです。聖書はノストラダムスの書ではありません!
「7年間の大患難時代が終わって75日で千年王国始まります」なんて、見てきたかのようなことをいう人もいますが、まあ、そういった主張は、イエスの教えとは何の関係もありません。

世の終わりの時はこうなるのだと断定的に言う人たちほど、オカルト的・カルト的な話を優先し、神を愛し隣人を愛するという基本をおろそかにしているように思えます。

そりゃあ「福音派」の人たちも自分たちをキリスト教と称し、「神を愛し隣人を愛する」と言ってはいます。一般のキリスト教と同じことを言っているように聞こえますが、意味が違います。
彼らは自分たちが属する教派や牧師の原理主義的・カルト的な教えを無批判に信じ込むことを「神を愛すること」だと思っています。
信じなければ地獄に落ちて永遠に焼かれてしまうという恐怖が常にあって、その「教会」から抜けられなくなっているんです。その恐怖の中に他者を引っ張り込んで不安な思いを共有させることが彼らの福音伝道です。この伝道こそが「隣人愛」の実践なんです。永遠の地獄に行かないようにして天国に導いてあげるのだから、「隣人愛」なんです。福音書に出てくる「盲人を導く盲人」というのはこの人たちのことかと思えてきます。

「福音派」の信仰の中心にあるのは「罪の意識と地獄の恐怖」です。いつも不安な思いを抱えて「信仰」しています。そこが、「福音を信じる喜び」が中心の一般のキリスト教の教えと決定的に違います。

そして、この「福音派」の信仰は、「地獄に行きたくないからイエス様を信じます」みたいな自己保身的な信仰です。信仰の中心が「罪の意識と地獄の恐怖」ですから、当然そうなるのでしょう。
地獄の不安を解消する手段に、イエス・キリストの十字架を使っています。
どこまでも自分中心で、自分第一で、イエス・キリストの十字架は自分が地獄を免れるのに利用する手段です。
それってエゴイズムの一種ですよ。地獄に行きたくないから免罪符を買うのと同じです。

「私はイエス様の十字架による救いを信じます。だから天国に導いてください」という「信仰」は、一見、正統信仰のように聞こえますが、それって、「信じるから、そのかわり天国に入れてくれ」という取引きです。信じることの御利益(ごりやく)として天国での永遠の命を求めているのです。

イエスはそのような、神との取引きや、御利益の要求を教えたんですか?(※3)

「福音派」というのはキリスト教を自称する別の宗教なのか、それともキリスト教の内部に生じた腐敗部分なのか、どちらにしても、イエスが人々に伝えようとした根本理念と180度違います。

イエスと真逆の主張をする人たちをクリスチャンと呼んでいいのか、かなり疑問です。


主流派のプロテスタントも、一般の(原理主義でない)福音派も、無教会も、カトリックも、正教会も、みなイエスを信じるクリスチャンの集まりです。19世紀以降の自由主義神学の立場の人たちだって、彼らなりに誠実に道を求めようとしたわけで、イエスの敵ではありません。

でも、イエスの教えと180度違う主張をする自称「福音派」(キリスト教原理主義者や聖書カルト)の人たちはクリスチャンなのでしょうか?

私は、自称「福音派」の人たちをクリスチャンと呼ぶのをためらいます。彼らはイエスの側ではなくイエスと逆の側です。


「救い」をどう定義するかにもよるのでしょうが、「福音派」は救いの中にいるのでしょうか?

最終的な救いは神様にしかわかりません。

でも、少なくともこの地上の現実においては、「間違ったイデオロギーをキリスト教だと思って信じ込んでいる人たち」は「救いの中にいない」と言えます。
イエスの教えと180度違うのですから。

実際、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結んでいます。

特殊な教会の教えにつまずかれた方は、伝統ある普通の教会や、普通のキリスト教系の学校、普通のキリスト教の集会などで話を聞いてみてはいかがでしょうか。主流派のプロテスタント、一般の(原理主義でない)福音派、無教会、カトリック、正教会などが普通のキリスト教です。普通のキリスト教は、エキュメニズム派、エキュメニカル派と呼ばれることもあります。

(伊藤一滴)


※1
旧約の律法は今も有効か、
すべて有効か、ある部分は有効か、
ある部分ならそれはどこまでか、
正しい戦争はあるのか、
奴隷制は認められるのか、
女性は牧師になれるのか、
牧師を先生と呼んでいいのか、
同性愛者は罪人なのか、
教会で信仰を誓ってよいのか、
そもそも宣誓をしてよいのか・・・・、

聖書を引用して正反対の主張が出来る例はたくさんあります。


※2 こういうことを書くと、「一滴さんはスウェーデンボルグの影響を受けた異端思想の人なのか」なんて言われると困るんで、念のため言っておきます。

スウェーデンボルグはいろいろ述べていますが、ここで私は、彼の、「神が人を地獄に突き落とすのではなく、地獄に行く人は自分から行く」という考えを取り上げ、「その説が正しいかどうかはともかく、そういう考え方もあるのか、と思いました」と言ってるんです。
スウェーデンボルグ派の信仰こそ正しいなんて言っていません。
ちゃんと読んでください。


※3
何度も繰り返しますが、イエスは人々に次のようなことを求めたのだろうと思います。

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、

そして、肝心なときに、イエスの求めに従うことができるよう、日頃から自分で考え、判断し、決断し、行動できること。


2021-11-19 掲載分を改定


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過去に書いたものは、こちらからも読めます。
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