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Textus Receptus(TR、受け入れられたテキスト、公認本文)のこと(再掲)

私が言うようなことでもないのでしょうが、Textus Receptus(TR)についてどう思うのか聞かれたので答えます。

聖書の原典は残っていません。写本しかありません。
長い歳月に渡って書き写された聖書は、歴史の中で不正確になってゆきました。中世の小文字写本は、参考程度にはなっても、現代の本文校訂(正文批判)の基本には使われていないとのことです。

「改竄された聖書」といった言葉はあまり使いたくないのですが、書き写す際のうっかりミスだけでなく、中世のカトリック教会の見解に沿う形で、写本への書き加えや書き換えもあったようです。
また、写本の筆記者が、解釈や感想を欄外にメモしたりすると、次の筆記者がそのメモを本文の一部だと思って本文に組み込んでしまうこともあったようです。ペンで手書きしていた時代、うっかり行を飛ばしたりすると、そのページを全部書き直すのは大変なので、抜けた行を欄外に書くこともあったのだそうです。そうすると、欄外に何か書いてあれば、それも本文の一部かと思われることもあったのでしょう。

想像ですが、たとえば、マタイ伝の主の祈りを書き写していた人が、この祈りに感動し、神を讃えて、欄外に「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだから」と書いたとします。次にその写本を書き写す人が、欄外の書き込みを見て、前の人が写すときにうっかり飛ばしてしまった行を後から気づいて欄外に書いたのだと思い、本文に書き入れてしまう、といったことが起きたのかもしれません。想像ですけれど、十分にあり得る話です。それなら悪意のない書き加えですが、結果は聖書への書き加えです。「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだから」は、古代の、どの写本にもありません。明らかに後代の書き加えです。

このような不正確な小文字写本に基づいて出されたかつての新約聖書校訂本が、いわゆるTRと呼ばれるものです。16世紀のエラスムス版の流れにある Textus Receptus(受け入れられたテキスト、公認本文)の略です。
TRが使われていた時代、入手・閲覧できる写本も限られていましたし、写本の系統や年代もよくわかっていませんでした。

その後、学者らは、写本の系統をふまえ、古代の大文字写本やパピルスも検討し、新約聖書のオリジナルの復元に努めました。
今日の新約聖書校訂本の最高峰は、ドイツ聖書協会のネストレ・アーラント版です。これが世界標準で、今、キリスト教界では、福音派からカトリックまでこれを使っています。現在(2022年)、最新版は28版です。

なお、新共同訳の新約の底本になった聖書協会世界連盟「ギリシア語新約聖書修正第3版」は「ネストレ・アーラント校訂第26版」と本文が全く同じだそうです。じゃあなんで「ネストレ・アーラント」と書かなかったのでしょう。何か事情があるんでしょうね。私にはよくわかりませんが。


素人が考えても、TRとネストレのどちらが優れているのかすぐにわかります。

・TR聖書:中世の不正確な小文字写本に基づいて出された校訂本。古くても12世紀の写本で、校訂者が参照できる写本の数も限られていた。使われた小文字写本には、中世のカトリック教会による書き加えや書き換えも見られる。

・ネストレ・アーラント版:古代の大文字写本もパピルス片も可能な限り参照し、あらゆる可能性を検討し、新約聖書のオリジナルの復元に努めた最高峰の校訂本。


TRを底本にした過去の名訳もあり、TRに不正確な箇所があることは承知の上で、私も参照しています。英訳では欽定訳(KJV AV)の新約、日本語訳では明治元訳、永井直治訳などです。
なお、ルター訳(独)、ティンダル訳(英)の新約なども、私は持っていないし読みこなす能力もありませんが、底本はTRのもとになったエラスムス校訂版です。

明治元訳がTRに基づくのは、明治初めという時代の制約です。欽定訳や漢訳を見ながらの訳だったのでしょうが、欽定訳も当時の漢訳も、もとはTRです。
「新契約聖書」の永井直治先生にしたって、TRがいいと思っていたわけではありません。ステファヌスからネストレに至る新約聖書校訂本の流れ、修正、その変化を一覧にしようしていたのです(※)。まず、ステファヌス第三版を日本語に訳して出版しましたが、日本はアジア太平洋戦争に突入し、永井先生は大戦末期に亡くなりました。もし、そんな時代ではなく、永井先生に時間も資金も十分にあれば、予定どおりネストレまで、どこがどう違うのかを訳し終え、歴史的な新約聖書校訂本の総括的な変化の一覧を作ったことでしょう。その大きな計画が、最初の1冊で終わってしまったのが何とも惜しまれます。

一部に出回っているネストレを不正確に(というか、でたらめに)訳した翻訳より、TRを正確に訳した翻訳の方が、ずっと参考になります。もちろん、底本に不正確な箇所があることを承知の上で使う必要がありますが。


もう一点。
19世紀のウェストコットとホートやその後の校訂本の校訂者らの中に、仮に、問題のある人物がいた場合(問題のある人物がいたかどうか私は知らないので仮定の話ですが、もし、いた場合)、だからその校訂は正しくないという話にはなりません。誰が校訂しても、その校訂が正しければ正しいのです。たとえピタゴラスが極悪人でも、だからピタゴラスの定理は間違いだとはなりません(これも仮定の話で、ピタゴラスが悪人だったわけではありませんが)。

聖書の本文校訂の正しさは、その人が入手・閲覧できた写本の精度や、その人の校訂の能力によるのです! 
その人の人格や信仰や行ないによるのではありません!!

「現行のネストレ・アーラント版の校訂には非クリスチャンも加わっていますから、使うべきではありません」みたいなことを言う人がいますが、本文校訂の正確さと信仰の有無とは何も関係ありません。


さらにもう一点。
田川建三訳『新約聖書』は、ネストレに従っていない箇所がありますが、それは田川先生がご自分で本文校訂(正文批判)をなさったからです。「田川訳はネストレと違う箇所があるからTRからの訳でしょう」みたいなことを言う人がいて、びっくりしました。無知から来る誤解とはいえ、そこまで誤解するのは、ちょっとねえ…。田川建三先生は、はじめからTRなど相手にしてません。


おすすめの日本語訳聖書についても聞かれているんですが、近いうちに答えます。

(伊藤一滴)


※「新契約聖書」の「小引」で、永井直治先生はこう書いています。

引用開始
 併しステハヌスを學び、またそれを仔細に和譯することが、私の研究の主眼ではありません。私の主眼とする處は、等しくステハヌスを基本としまして、ベザやエルゼビル、ミルやグリスバッハ、尚ほその他の多くの學者等を經て、ラハマン、ツレゲレス、チシェンドルフ等の學者に傳はり、遂にヱストコットやワイス等よりネストレに落ち込みました。その流、その修正、またはその變化を一見して明らかなる樣、一册のテッキストに歴史的に總括することでした、本書はその基礎であり、またその一部分であります。
引用終了

永井先生は、ティシェンドルフも、ウェストコットも、ヴァイスも、ネストレも、否定していません。
ティシェンドルフ版、ウェストコットとホート版は、写本の系統や古代の写本類の検討で近代的な本文批判の道を拓きました。またヴァイスはQ資料の研究でも知られるドイツの新約学者で、ブルトマンや、日本の波多野精一もヴァイスに学んでいます。


付記:「ジネント山里記」または「ジネント」で検索すると広告が表示されることがありますが、広告は私とは一切関係ありません。当然、広告に出てくる見解は、私の考えとは一切関係ありません。
(ただし、田川建三訳の新約聖書のように、私もおすすめの本が広告に出てくることもあります。)


参考文献

田川建三著『書物としての新約聖書』
バート・D・アーマン著、津守京子訳『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』
(B.M.メツガー著、橋本滋男訳『新約聖書の本文研究』 も有名です。事情があって、私は未読ですが。)

(伊藤一滴)

2022-01-21 掲載 そのまま再掲

追記:B.M.メツガー著、橋本滋男訳『新約聖書の本文研究』を古本屋で安価で見かけ、買おうと思って次の日に行ったら売れてました。ネットで探したら非常に高価で、買ってません。田川建三著『書物としての新約聖書』におおよそのことが書いてあるんで(これも高価)、ま、いいか。
なお、『書物としての新約聖書』は、新約ギリシャ語の本文(ほんもん)についてはともかく、過去の新約聖書の日本語訳に関しては不正確な記述が見られます。たとえば、ギュツラフ訳に協力した日本人の漂流者たちは漁民だとか(実際は千石船と呼ばれた当時の貨物船の乗組員)。ラゲ訳のラゲ神父はフランス人だとか(実際はベルギー人、フランスのパリ宣教会から派遣されて日本に来た宣教師だが、フランスから派遣されたからといってフランス人ではない)。
田川さんの専門は新約学で、聖書翻訳史が専門ではないから仕方ないのかもしれませんが、人の間違いにはやたら厳しいのに自分も間違ってます。キリスト教系の出版社から出た本にも「漁民」なんて書いてあったりするんで、「貨物船の乗組員」と「漁民」の区別なんてどうでもいいんですかね。(2023.6.1)

もう1つ、追記
「ネストレは間違っている、TRが正しい」と言う人たちがいますが、それ、「地球が丸いというのは間違っている、地球は平たい」みたいな話です。地球は平たいと信じる人にとってはそれが真実で、丸い地球が写った写真を何枚見せて説明したって、「そんなのはみな改竄された写真だ」とか言うんでしょう。TRが正しいと信じ込んでいる人に、それは中世の不正確な写本をもとにした校訂本だとどんなに説明しても通じないようです。近代的な本文校訂(正文批判)は、TRが正しいという先入観との戦いだったとも言えます。(2023.6.19)

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