おすすめの新約聖書 日本語訳 (再掲)
日本語訳の新約聖書の中で、おすすめのもの。かつ、入手が比較的容易なもの。
個人訳以外は、ほぼ年代順。
「聖書 文語訳」(日本聖書協会/岩波文庫版あり)
文語体です。
漢字の読みは独特です。(ルビがなければ読めません)
よどみなく読むには、慣れが必要です。
現行の新約は大正時代の改訳です。
ネストレを参照して訳したとされていますが、欽定訳の影響を感じます。
名訳として高く評価されています。まあ、欽定訳が名訳ですから。
「聖書 口語訳」(日本聖書協会)
戦後間もない頃の訳で、文語から口語への移行期でした。それもあって、ぎこちない表現もあります。
ネストレを底本にして正確な翻訳に努めたそうですが、間違いなく、RSV(Revised Standard Version)を手元に置いて見ながら訳してます。
「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、~」(マタイ1:2)。えっ、「父」なんて単語はないぞって思ったら、RSVがそう訳しています。
「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」(マタイ5:41)。マイルなんて単位はどっから出てきたんだって思ったら、RSVがそうなってます。
もしかして、底本はRSV? ネストレは参照程度?
翻訳はネストレに従っていない箇所もあって、それはそれで興味深い訳です。
「差別語、不快語」がよくないとされ、現行版は「改訂」されてしまいました。文語訳はそんな「改訂」をしていないのに。
読むなら改訂前の古書かネットで。
半世紀以上前の訳です。今日の目から見たらいろいろありますが、文学的にはともかく、正確な翻訳に努めたという点では評価の高い訳です。そして、翻訳者が参照しているRSV自体、評価の高い訳です。
「聖書 新改訳」(日本聖書刊行会)
読みやすいです。
会話の言葉づかいが丁寧です。他の訳と比べると、会話が一番まともかも。
福音派の訳で、福音派なりの見解もありますし、細かく見ればどうかと思える箇所もあります。でも、それを承知で私も愛用しています。
私の場合、小学生のときからこの訳を中心に読んできたんで、一番なじみがあります。口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳などのイエスの言葉づかいは、「~である」調で、どうも尊大で居丈高に聞こえてしまい、抵抗があります。
旧新約の合本は引照と簡単な注がついていて便利です。チェーン式だともっと便利です。
初版、2版、3版、2017と改訂され、私見では、改訂されるたびに悪くなっていったように思えます。
これまで大量に出回ったんで、古書で旧版の入手も可能でしょう。
初版はネットでも読めますが、引照・注付きの紙の本がおすすめです。
新品で買うなら「新改訳2017」しかありません。以前の版は絶版です。
「聖書 新共同訳」(日本聖書協会)
これも読みやすいですが、イエスの言葉づかいは新改訳の方がていねいです。
例外もありますが、福音派を除くプロテスタントからカトリックまで、またキリスト教系の学校でも、広く使われてきました。
数年前まで最も出回っていた訳で、日本における標準的な訳でした。今は、「聖書協会共同訳」に移行しつつあるようです。
新共同訳は、口語訳聖書よりも意訳してます。正確さより読みやすさを優先したのかな。
初期版と後期版があります。初期版の「らい病」が後期版では「重い皮膚病」になってました。原文尊重と、現代における人権尊重と、どちらもふまえてどう訳すべきか、難しいところですね。
前身の「新約聖書 共同訳」(新共同訳ではなくて、共同訳)もあるんですが、もし見かけてもおすすめしません。極端な意訳で、ひどすぎます(※1)。「新約聖書 共同訳」は日本聖書協会版(絶版)と講談社学術文庫版があります。講談社さんまで、なんでこんなのを出したんですかね。それよりヘボン訳、明治元訳、ラゲ訳、永井直治訳でも出してくれればいいのに。
フランシスコ会聖書研究所「聖書 原文校訂による口語訳」(サンパウロ)
1950年代から翻訳が始まり、2011年に旧新約の1冊本が完成した、何とも気の長い翻訳です。1950年代に翻訳に参加した人はいくつになってたんでしょう。関係者の中には、完成を見ずに亡くなられた方もおられるんじゃないかと思います。
ヴルガタ(ヒエロニムスのラテン語訳聖書)からの重訳しかなかった日本のカトリックが、原文校訂(本文校訂)による口語訳を進め、長い歳月をかけて訳した見事な訳です。特に分冊版は注が充実していて、私も、とても勉強になりました。
しかし、翻訳にあまりにも時間がかかり過ぎて、その間に新共同訳も出て、どうしてもこの訳という意義が薄れたようです。見事な訳なのに、あまり売れていないようで残念です。修道会だから、採算を度外視してこの大事業を成し遂げたのでしょうが、商売として考えたらまったく割に合わないでしょう。それにしても、まあ、カトリックさんのやることは何とも気が長い。サグラダファミリアの建設みたいです。
新共同訳と似ている箇所がかなりあります。同じ人が両方の訳に加わっていますから。聖書を原文(校訂本)から訳せる人なんて、そんなにたくさん日本にいないんでしょう。
時間はかかりましたが、口語訳、新共同訳と比べても、見事な訳だと思います。
新品で購入して少しでも資金協力に参加したいと思い、私も、新約の分冊、新約の合本、旧新約の合本を買いました。
なお、このあまりにも長い翻訳の期間中、全体の完成の前に一部が改訂され、改訂前の方がよかったと思える箇所もあります。もし古書で旧版を見かけたら、買っておく価値があります。
「聖書 聖書協会共同訳」(日本聖書協会)
日本聖書協会の最新版です。
これは持ってませんし、立ち読み程度しか読んでません。
その程度で紹介するのもちょっと気が引けるんですが、思ったことを少しだけ。
本屋で見ただけですが、引照・注も含めて字の組み方は新改訳と似ています。視力が衰えてきた私の目で見ると、一瞬、新改訳かと思うくらい似てます。新改訳の引照は使いやすいんで、いい点をまねてくれたと思います。
イエスの言葉づかいは相変わらず「~である」調だし、訳者は気づいているだろうに先輩への配慮なのか聖書協会が求めるのか、誤訳の踏襲も続いています。もし、クリスチャンの学者による聖書翻訳が、先輩の訳を批判できない世界だったら、それ、どうなんですかね。
立ち読みしただけですが、ローマ書16章のユニアスの名がユニアになってました。独自の本文校訂でしょうか。フェミニズムを意識したのかも。
いずれ買ってじっくり読もうと思います。
たぶん、今後、この訳が主流になるのでしょう。
引照も注もないスタンダード版はおすすめしません。買うなら「引照・注付き」です。
引照も注もなしで聖書を読めるのは、よっぽどの達人だけでしょう。
田川建三訳「新約聖書」(作品社)
本文の訳だけの一冊本と、詳しい註のついた分冊があります。どちらも、高価です。
分冊は、他の訳の批判を延々と書かなければもっと薄くできたと思いますけどね。田川訳を読むような人は、他の訳に問題があることなど当然知っているでしょうし。
それと、ご自分で独自に本文校訂(正文批判)をなさっているようですが、ネストレと違う読みを採用した箇所は、ギリシャ語の文を載せてくれたらよかったのに、と思います。他の訳の非難を削ればそれくらいのスペースは出来たんじゃないですか?
配列も独自です。成立年代順でもないようです。年代順なら福音書よりパウロ書簡が先ですし。
一冊本も、ぱっと開けないんです。こっちは頭の中に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ロマ、コリント(1・2)、ガラテヤ書、エペ、ピリ、コロサイ、テサロニケ(1・2)、テモ(1・2)、テト、ピレモン、ヘブル書…って、鉄道唱歌の曲に合わせて順番が頭に入ってるわけだから、参照したいときに、ぱっと開けないのがちょっときつい(※2)。
まあ、言いたいことはいろいろありますが、これまで日本語に訳された新約聖書の中で、おそらくこの訳が最高峰でしょう。
前田護郎訳「新約聖書」(中央公論社)
入手または閲覧が容易なものとしましたが、これは例外で絶版です。でも、歴史的な一冊ですので紹介します。
無教会伝道者・塚本虎二門下の前田護郎の訳です。
前田護郎門下には佐竹明、荒井献、田川建三、八木誠一、川村輝典といった、日本を代表する聖書学者たちがいます。
前田訳は他の日本語訳聖書やRSV等の影響を感じません。そうしたものをまったく見ないで訳したんでしょう。注に訳者の信仰を感じますが、信仰を前提に訳すのがいいのかどうか、評価は分かれるでしょう。
前田護郎の師の塚本虎二の訳もありますが、独特の意訳箇所も多く、戦前や戦後すぐならともかく、今、あえて使うこともないでしょう。日本における聖書翻訳史やキリスト教伝道史の資料としての価値はともかく、聖書そのものの学びには、塚本訳はおすすめしません。塚本虎二訳「福音書」が岩波文庫から出ています。同じ岩波文庫から「使徒のはたらき」(=使徒行伝)も出てました(こちらは絶版)。
では、どの訳がいいのか。
決定版はありません。
訳文の信頼とコストパフォーマンスを考えれば、多少の問題点はあってもまずは日本聖書協会版からでしょう。
主流派のプロテスタント、カトリック、正教会はもちろん、福音派の人でも、非キリスト教の人でも、日本聖書協会版の聖書を読んで損はありません。
たぶん、今後の主流は、「聖書 聖書協会共同訳」(日本聖書協会)になるのでしょう。でも、もしかすると改訂版が出るかもしれません。いつだかわかりませんが。
新たに買うのであれば、引照・注付きを。旧約と新約の合本を買うなら、可能であれば旧約聖書続編付きを(所属教派の立場や自分の信条で旧約続編は認められないというのであれば仕方ありませんが)。
特に正確な訳を望むのであれば、田川建三訳です。けっこうクセがあるし、値段も高いです。
(旧約については、私はヘブライ語の知識がないのですが、これも信頼とコスパを考えれば、まずは日本聖書協会版あたりからでしょうか。他に有名なのは関根正雄訳です。正確さの追求であれば、新約は田川訳、旧約は関根訳でしょうか。)
福音派の訳を参照するのであれば「聖書 新改訳」です。福音派の訳だというので相手にしない人もいますが、新約を読む限り、ほとんどはちゃんと訳されています。口語訳や新共同訳よりうまく訳していると思える箇所もあります。私の個人的な見解ですが、2017版よりも旧版のほうがよい訳です。
英訳を参照するなら、まずは RSV(Revised Standard Version)でしょう。
英国欽定訳は、初版が1611年と古いのですが、現代表記に直したものなら今も普通に買えます。どういうわけだかアメリカ人は King James Version(KJV) と呼び、イギリス人は Authorized Version(AV) と呼ぶことが多いようです。
欽定訳の新約の底本がTRなんで、底本自体が一部不正確なんですが、ギリシャ語を忠実に訳そうとした努力を感じます。箇所によっては、RSV よりうまく訳していると思います。先行するティンダルの訳があったからでしょう。「聖書を英語に訳した罪」によって処刑されてしまったティンダルは、偉大な人でした(※3)。
何度も言いますが、聖書の訳に決定版はありません。
(伊藤一滴)
※1 余談になりますが、日本でも、特に1970~80年代、ユージン・ナイダらの理論の悪影響を受けて、ひどい訳の「聖書」が出回りました。原文から離れ、極端な意訳に走り、さまざまな含みのある表現を1つの意味に限定したりして、とても訳と呼べないようなものがありました。そうしたものは文の書き換えで(つまり改竄で)、聖書の翻訳というより聖書風の作文でした。底本どおりでもなく、独自に本文校訂したわけでもなく、自分たちの好みで適当に書き換えて「訳」と称したのです。
比較的信頼できる訳文(口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳など)と比較し、全体的にあまりにも違う訳があれば気をつけたほうがいいです。
「新約聖書 共同訳」(旧共同訳)もひどいのですが、もっとひどい「訳」もありました。まともな訳と比較すればわかります。特に、他教派の見解を否定するためにあちこち書き換えた「訳」など、論じるにも値しません。
昔は、「聖書を翻訳した罪」によって処刑された人までいたんです。聖書の本文校訂に従事した人たちや、一語一語を大事に翻訳した人たちの血の滲むような努力を思うと、「何がナイダ理論だ、ふざけるな」と言いたくなります。
もう少し、詳しく書きます。
ナイダ理論を言う人は、たとえば「雪のように白くなる」を南国の言語にそのまま訳したら、雪を見たことのない人には理解できなくなるが、「乳のように白くなる」と訳せばわかる、みたいなことを言うのです。原文に「乳」なんてなくても。
でも、乳と訳したのでは、雪の冷たさや透明感、そこから感じられる清らかさといった言葉の感触が失われてしまいます。
やはり、雪は雪と訳し、欄外に注をつけて、雪についての説明を書けばいいのにって、私は思いますけど。
「雪」を「乳」と置き換えても、それくらいはまだ、意訳の範囲内として許されるかもしれません。でも、原文に「霊において貧しい人たち」とあるのを、たとえば「心の貧しい人」とか「自分の貧しさを知る人」とか「謙遜な人」とか「神により頼む人」みたいに置き換えるのも意訳の範囲内なのでしょうか? 「霊において貧しい」では意味がわからないから、わかるように意訳すべきだと言いたいのでしょうが、それは訳者の解釈による意味の限定です。いろいろな解釈ができるのに、ある1つに絞り込むのです。それも、訳者の好みで。原文には、いろいろな含みがあるのです。そうした含みの幅を無視していいのかって思うんです。1つの意味に置き換えられた訳文しか知らない人は、幅のある含みを知らぬまま、1つの意味で覚えてしまうことでしょう。この箇所はこう解釈できるという注解を、本文の「訳」でやってしまっていいんでしょうか。注解書なら複数の解釈を併記することもできますが、「訳」ではそれもできません。
もう1つの例ですが、原文に「月に冒されて」とあった場合、これを「てんかん」と訳していいんだろうかって思います。聖書を書いたのは古代人です。古代の世界観の中で生きていた人たちです。病気の原因が科学的に解明されておらず、月の作用で体や心に不具合が生じる場合があると本気で考えていた人たちです。田川建三さんは「月化」と造語をつくって訳しておられましたが、これは、みごとです。月の病なんて訳すと婦人病や五月病と勘違いされるといけませんが、月化はみごとですね。月光病といった訳も可能かと思います。
てんかんも古代人にとってこの病気の1つでしょうが、月の作用と考えられた病気のすべてがてんかんではないのです。てんかんと訳すことで意味が限定されてしまいます。月の作用だとわかる訳語にした上で、注に「当時の人たちは月の作用で体や心に不具合が生じる場合があると考えていた」と書けばいいだけではないのですか?
ちなみに、「中風」(ちゅうぶ)は中風でいいと思います。中風は脳卒中の後遺症などによる身体の麻痺で、病名を限定しているのではないし、脳卒中という言葉だって、厳密な病名ではありませんから。
※2 他にも、マタ、マル、ルカ、ヨハ、使徒、ローマ…、とか、歌詞にいくつかのバージョンがあるようです。
私は、1983年、仙台市内の福音派の教会の牧師先生から教えていただき、覚えました。おかげで、旧約も新約も、題名を全部暗記できました。牧師先生、ありがとうございました。
先ほど、「聖書 鉄道唱歌」で検索したら、YouTubeに歌がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=Er_eTFCoJ4g
旧約は私が習ったのとまったく同じ、新約は少し違うバージョンです。
なんだか、なつかしい。
※3 デイヴィド・ダニエル著、田川建三訳『ウィリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』
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