「十字架の贖いを信じるかどうか」が最も大事?
若い頃、イエスの言葉よりパウロやカルヴァンの見解を上に置く人たちを、「パウロ教」「カルヴァン教」と皮肉っていました。
「福音派」とか「教派ではなく真のキリスト教」とか称する人たちで、しつこく絡んできて、私も腹を立てたんです。
前回書いた、罪や悪魔や地獄の恐怖で人を脅す人たちです。困っている人がいても指一本動かさず、社会の諸問題にもまるで無関心で、「もうすぐ世の終わりが来るのですから、世に関わっても意味がありません」みたいな人たちでした。仏教団体の福祉活動を「救いとは無縁で無意味です」と言って馬鹿にし、クリスチャンの社会活動を「あの人たちは社会派で、正しい信仰ではありません」と言って見下すような人たちでした。
そういう人たちから何度も絡まれ、私はかなり腹を立てました。
怒りのあまり、
「仏教徒もイスラム教徒も無神論者も簡単には地獄には行けませんが、あなた方なら行けます」
と言ったら怒ってましたね。真っ赤になって怒ってました。青くなって怒る人もいました。
でも、私にきちんと反論できる人は誰もいませんでした。
体を震わせて私をにらみ「あなたは救いの中にいません!」などと言うのですが、どうしてそう言えるのか、誰も筋を通して説明できないんです。まあ、単なるカルト信仰の思い込みで、ちゃんとした理論なんて、最初からなかったんでしょうけど。
今思うと、当時の私は彼らへの愛の心を欠いていたと反省しています。
人を見下すような彼らの言葉や態度に腹を立て、それを指摘したらしつこく絡まれて、さらに頭に来て、正面から喧嘩腰で反論していました。
相手のことを思えば、もっと言いようもあったのでしょう。
私はまだ若く、未熟でした。
その後会っていませんが、彼らがどこかで気づき、目を覚ましてくれていたらいいと思います。
イエスは「十字架の贖いを信じない人はみな地獄に行く」「贖いを知らない人もみな地獄に行く」と教えましたか?
読みようによってそう感じてしまうのは、植え付けられた先入観があるからではないのですか?
聖書の中に出てくる「信仰」とは、すべて「十字架の贖いを信じること」ですか?
まず、旧約には「十字架の贖いを信じること」は出てきません。だから、旧約に出てくる人で十字架の贖いを信じていた人はいません。
新約を見ても、
マリアの夫ヨセフは十字架の贖いを信じていましたか?
星に導かれてエルサレムに来た東の博士たちは十字架の贖いを信じていましたか? この博士たちって、異教の占星術の学者でしょ。
まぶねに眠る御子を訪ねてきた羊飼いたちは十字架の贖いを信じていましたか?
バプテスマのヨハネは十字架の贖いを信じていましたか?
長血の病を癒された女は十字架の贖いを信じていましたか? イエスはこの女に「あなたの信仰があなたを救った」と言ってますけど。
「十字架の贖いを信じない人はみな地獄に行く」「贖いを知らない人もみな地獄に行く」というのなら、こうした人たちも地獄に行くことになるのですか?
キリスト教において最も大切なのは、イエスを信頼し、イエスが人々に伝えようとしたメッセージを受け入れ、従うことではないのですか。
イエスは、心から神を愛することと、自分自身を愛するように隣人を愛することの大切さを説きました。これら最も小さい者の一人にしたのはすなわち私にしたのであり、しなかったのは私にしなかったのだと教えました。(※)
愛と、愛に基づく行動を、一般にヒューマニズムといっています。
福音書を素直に読めば、イエスはヒューマニズムを重視していた、と読めます。
イエス自身、「十字架の贖いを信じるかどうか」を最も重視していたとは思えません。
「善い行ないも人道主義も救いとは一切無関係です。イエス・キリストの十字架の贖いを信じる以外、いかなる救いもありません」などと言っている自称「福音派」や「教派ではない」人たちの主張は、イエスの教えと方向が逆です。
だから私は、「仏教徒もイスラム教徒も無神論者も簡単には地獄には行けませんが、あなた方なら行けます」と言ったのです。
(今もそう思っているわけではありませんが、その頃は本気でした。)
そして、にらみつけられて、「あなたは救いの中にいません!」と怒られました。
当時の私は、その言葉をそっくり彼らにお返ししました。
「救いの中にいないのはあなた方のほうです。仏教徒もイスラム教徒も無神論者も神様の御そばに上げられてアブラハムのふところにいだかれる日に、あなた方ははるか下の灼熱の炎の中で泣いて歯ぎしりすることでしょう」
(伊藤一滴)
※「人の子」がイエスのことかどうか議論がありますが、たとえ別の存在でも、その「人の子」に対して良いことをしたかどうかが問われるというのです。
「人が救われるのはその人の良い行ないによるのであって、十字架の贖いを信じるかどうかによるのではない」という主張も可能でしょう。パウロの見解に反するとか、ルターの見解に反するとか言われるでしょうが、「パウロの見解は聖書に出てくるさまざまな見解の中の一意見」「ルターの主張はキリスト教の歴史の中のさまざまな見解の中の一意見」と言い返すこともできるでしょう。
コメント