人を縛る現代の律法主義
私が最初に行った「教会」は、極端な原理主義者(あるいはカルト)の集まりでした。40年以上前の話です。私は10代のはじめでした。
他の教会のことをまったく知らないので、そこが特異な「教会」だとすぐには気づかず、たびたび行って話を聞いていました。
おかしいと気づくまで、時間がかかりました。
だいぶあとになって、日本基督教団の信者さんにその話をしたら、
「それはあなたの責任ではありませんよ。教会を外から見たって、それが健全な教会か極端な教会かなんて、見分けられません。それに、極端な人たちは、すぐにはそういう色を出しませんから、何回か行って話をしたくらいでは分からないんですよ」と言われました。
そのとおりです。
大学生のとき、いろいろな教派の教会を訪問し、あまりの違いに驚きました。
「キリスト教を信じることが大事なのであって、教派なんてどこでもいい」みたいなことを言う人もいますが、教派によってやり方も言うこともかなり違います。別の宗教ではないかと思うくらい違います。
しかも、同じ教派なのに、教会によって、牧師によって、ずいぶん見解が違うこともあります。
一つの教会しか知らない人にとってはそこがキリスト教の標準かもしれませんが、他の教会に行ったり、他の牧師や司祭の話を聞いたりすると、まるで別な世界なんです。
キリスト教は実に多様です。
福音派と称する人たちにしても、決して一枚岩ではなくて、いろいろなタイプがあるようです。とてもいい人たちもいます。ただ、中には困った人たちもいます。
「福音派」と称する人たちの中に、明らかな原理主義者やカルトがいます。
原理主義者やカルトは地域が違っても教派が違っても、発想が非常によく似ています。
自分たちは正しいキリスト教を信じているから救われている。自分たちの外の「世」はサタンの支配下にある。「世」に価値はない。「世」はやがて滅ぶべきもの、くだらないものだ。リベラルなプロテスタントやカトリックの教会は「世」の影響を受けた教会であり、純粋なキリスト教ではない。彼らは聖書の権威を正しく認めない間違った価値観を持っている。
我々こそが、正しく聖書を理解し、正しく信じる教会だ。我々こそが、正統プロテスタントであり福音的な教会だ。
あれかこれかの二元論です。
このような、自称「正統プロテスタントの福音的な教会」は、人を責め、人を縛るのです。
自分を縛り、自分の家族や関わりのある人たちを縛ろうとします。
だって、この「正しい」教えを信じないと、永遠の地獄で永遠に焼かれるんだから。一人でも多くの人を救わないといけない。信じてもらわないと。
そうやって、人はみな罪びとだという罪悪感や地獄に落ちるのではないかという恐怖心で人を縛り、縛られた状態を「救われている」と言うのです。
福音のため、救いのため、永遠の命のためと、牧師は信者を脅し、縛ります。信者に子どもがいれば子どもを脅し、縛ります。
恐怖心を植え付けられ、「この教えを信じる者だけが救われ、他は永遠の地獄で永遠に焼かれる」と教え込まれ、逃げられなくなります。
10代はじめの私は、そういう「教会」で話を聞いていました。
それが正しい聖書信仰??
恫喝的に人を恐怖に陥れ、縛り、支配し、信じ込ませることがイエスの教え??
それは、人間が人間を支配しているのです。
支配するのに聖書を都合よく利用しているだけです。
『信仰という名の虐待』(いのちのことば社)という冊子が出てだいぶ経つのに、まるで変わらない「教会」もあると聞き、暗澹たる思いです。
支配する側の常でしょうが、人を縛る「教会」では、金銭欲や色欲に堕してゆく牧師も少なくないようです。あとは、認められたいという思いや、名誉欲でしょうか。
たとえそうならなくても、カルト的な信念で自分を縛り、生涯その信念を持って、他者を攻撃し続ける牧師や信者もいるようです。
ニーチェが言った「弱者のルサンチマン」(弱者の憎悪)、マルクスが言った「宗教は民衆のアヘン」といった言葉は、自称「正統プロテスタントの福音的な教会」にぴたりと当てはまるようです。
「~と言われてきたのをあなた方は聞いています。しかし私はあなた方に言います。・・・・」(マタイ5章)
支配からの解放が、福音書に描かれたイエスの教えです。
福音書を素直に読めば、イエスは律法を破壊したり否定したりせずにうまく乗り越えています。そうやって、律法主義の縛りから、人々を解放したのです。
それを、人を縛る律法主義に逆戻りさせてどうするのでしょう。
福音書に出てくるファリサイ派や律法学者への非難は、現代の律法主義(原理主義者やカルト)への非難そのものに思えます。
(伊藤一滴)
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