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言葉の意味の改変とレッテル貼り

歴史的事実にあまり興味がなく、事実に反することを平気で言ったり、特定の言葉が持つ意味を無視して勝手な意味で使い始め、独自の意味で使う人たちがいます。
例えば、「左翼」という言葉は、反体制派(特にマルクス主義者)を意味していましたが、ネット右翼(ネトウヨ)は「我々が気に入らないヤツ」という意味で使いだし、仲間内で定着させました。だから、仏教徒もキリスト教徒も、反マルクス主義者も、気に入らないヤツはみな「左翼」のレッテルを貼られてしまいます。


私は、こうした体質を、「福音派」と称する人たちの中に感じるときがあります。排他的なキリスト教原理主義を思わせる精神性、かもしれません。(すべての福音派ではありません。福音派の中には穏健で、良識があり、人の話をよく聞き、愛の心で他者に接する誠実な人たちが多数います。)


「私たちは、自由主義に対する福音主義の信仰に立ちます」

ある種の「福音派」の人たちはそう言います。でも、「自由主義」と「福音主義」は対立する概念なのでしょうか。

ルターは当時の教皇主義に対して福音主義を主張したのです。ですから、「教皇主義に対する福音主義」なのです。福音主義は聖書中心主義を意味し、プロテスタント主義とほぼ同義です。
この福音主義の中から、かつての自由主義神学やその後の様式史・非神話化論、新正統主義といったプロテスタント神学が展開していったのです。

福音主義というのは「教皇主義に対する福音主義」であって、自由主義神学なども含めた聖書中心主義を意味する言葉です。
私は、自由主義に対立する言葉として福音主義という言葉を用いるのは、言葉の使い方として不適切ではないかと思います。
ネット右翼らが「特定の言葉が持つ意味を無視して勝手な意味で使い始め、仲間内で、そもそもそんな意味ではなかった独自の意味で使う」のと似ているように思います。

「自由主義に対する福音主義の信仰」というのは仲間内でしか通じない独自の表現です。
本来の意味で言葉を使えば、
「プロテスタント主流派(リベラル)に対する福音派の信仰」
となるのではありませんか。

どうしても自由主義という言葉を使いたいなら、
「キリスト教の自由主義に対するキリスト教の原理主義」(原理主義=根本主義)
としないと、言葉が対になりません。(福音主義という言葉は原理主義という意味なのでしょうか?)

まあ、言葉は時代と共に変わりますから、本来、聖書中心主義を意味する「福音主義」という言葉が、今日では「福音派」という意味で使われることもある、ということなのでしょうけれど・・・・。でもそれは、自分たちが独自にそういう意味で使っているのであって、外部の人はあまり使わない表現です。

ある種の用語を言う側がどっちの意味で言っているのか、気をつけないと、話が通じなくなります。

(注:なお、日本語版ウィキペディアの「福音派」の項全体、および「福音主義」の項の中の「教派による福音主義の用語の違い」の箇所などは、「福音派」と称する立場の中の保守的な方が執筆されたようで、そういう視点から書かれていて、客観的な記述ではありません。2019年10月現在)


もう一つ私が気になっているのは、「自由主義神学」という言葉です。

自由主義神学という言葉の一般的な意味はこうです。

「こんにち自由主義神学と呼ばれるものは,主として19世紀のリッチュルとその学派をさす。そこにはハルナックのような教義史の大立者がおり,聖書研究ではH.グンケルやJ.ワイスのような宗教史学派に属する学者がおり,ブルトマンもその流れを汲んでいる。」
(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

(注:これも、日本語版ウィキペディアの「自由主義神学」の項は、「福音派」と称する立場の中の保守的な方が執筆されたようで、そういう視点から書かれていて、客観的な記述ではありません。一般的な意味ではなく福音派内で使われる独自の意味での「自由主義神学」の説明で、そういう視点から、「自由主義神学は間違っている、正しいキリスト教ではない」という価値観で書かれています。2019年10月現在)

ブルトマンを自由主義神学と呼ぶかどうかですが、私は、ブルトマンは自由主義神学の時代に学び、やがて、自由主義神学を批判的に克服した人だと思っています。

今日、かつての自由主義神学をそのまま信じている人はまずいないでしょう。
その後の神学は、自由主義神学の遺産をふまえ、批判的に克服する形で展開したのです。
自由主義神学を批判した人たちや批判者の流れをくむ人たちも、みなひっくるめて自由主義神学と呼ぶのはどういうことでしょう。

それこそ、ネトウヨのように、自分たちの神学以外の現代神学を総称して「我々が気に入らない神学」という意味で「自由主義神学」とレッテルを貼って言うのでしょうか。それはまさに、「特定の言葉が持つ意味を無視して勝手な意味で使い始め、仲間内で、そもそもそんな意味ではなかった独自の意味で使う」ことではありませんか。

わざと、ある言葉を違う意味で使い、インターネットも使ってどんどん広めれば、言葉はそういう意味を持つようになる、ということですか。

誠実さを感じません。

私自身、「あなたは自由主義神学の立場だからそんなことが言えるのです」と何度か言われました。
私は19世紀のリッチュル学派でもチュービンゲン学派でも宗教史学派でもないので、「私は自由主義神学の立場ではありません」と言ったのですが、「いいえ、自由主義神学です」と言われ、まったく対話になりませんでした。

でも、そういうレッテル貼りをする人と同じ福音派の教派に属する別の人から、私は親切にしていただき、有益な助言や心のこもった励ましをいただいたこともあります。感謝しています。所属教派だけでその人を判断できません。

福音派の中にはとてもいい人たちもいるのですが、福音派と称する人の中には、気をつけないといけない人もいます。
(彼らが「超教派」と言うのは、エキュメニズムとは違います。沿革の違う教会に属する似た考えの人たちの集まりを超教派と呼んでいるだけです。)


共通するものが見えてきました。
「福音派」の中の特に保守的な人たち(右派のプロテスタント神学者や、シカゴ声明などの信奉者)、明らかなキリスト教原理主義、狂信的な聖書カルトらの考え方は、ネット右翼とも共通するのですが、「我々は正しい、我々の外部は間違っている」という、あれかこれかの二元論的な価値観なのです。

「正しい」自分たちは、「正しくない」外部とは対話せず、時に、用語も独自の意味で使いだして意味を変えてゆくのです。

自分たちの正しさを信じてカルト化してゆく教会のほとんどが、福音派または聖霊派と称する教会であることと、無関係ではないでしょう。

絶対的なものを信じる信仰は、一歩間違えば、閉ざされた中で独善的に暴走し、それが独善的であることにも、暴走していることにも気づかなくなるのです。

(伊藤一滴)

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