カトリック信者と称する原理主義者たち
これまで、自称「福音派」・自称「正統プロテスタント」の原理主義者やカルトのことを書いてきました。
そうした人たちに会ってきたし、私自身、一方的に非難を浴びせられたこともありました。
ネットを見ていると、カトリック信者と称する原理主義者たちもいて、中には度が過ぎる主張をする人たちもいます。
そういう人に会ったことがなかったので、現代のカトリック教会には自由闊達なイメージがあって、いい印象を持っていたのですけれど、どうもこれは、カトリックかプロテスタントかではなくて、リベラルと守旧派の対立、あるいは寛容派と不寛容派の対立かと思えてきました。
日本のようなキリスト信者の少ない国でも、キリスト教の中に守旧派で不寛容な人たちがいて、極端になれば原理主義化し、もっと極端になればカルトのようになっていくようです。
ネットを見ていたら、私が尊敬するホアン・マシア師や本田哲郎師らへの罵詈雑言の数々がすごくて、これは福音伝道どころか、カトリックに対するマイナスの宣伝、キリスト教全体に対するマイナスの宣伝だと思いました。
自分たちが「正しい信仰」だと思っている先入観があって、その先入観に合致しない人にねちっこく非難を浴びせてくるのです。これでもか、これでもか、みたいな非難です。
たとえ、考え方が違うにしても、「私とは考えが違いますが、そういう考えもあるのですね」くらいなら、私も嫌な感じはしませんが、「そんなの、間違った考えです! 教義に反します、使徒信条に反します。そんなことを言うのは異端者です!」みたいなのは、どうもねえ。
プロテスタントの原理主義者もそうですが、自分たちなりの「正しい信仰」を持つ人の中に、やたら人を責める人がいます。
これは、二通りあるようです。
1.「真理」の側にいる自分たちが、間違った考えを持つ人を「正しい教え」に導いてあげたいという善意で厳しく責める。
2.「真理」の側にいる自分たちが、間違った考えによって「正しい教え」がおびやかされるのではないかと感じ、おびやかすものを徹底的に責めて否定する。
この1と2が混じりあうこともあるようです。
自分たちが信じる「正しい教え」(「聖書の真理」「信仰の真理」)によって、相手を変えたい、悔い改めさせたい、正しく導いてあげたい、そのためなら、相手の「誤り」を厳しく責めるのが神の愛の実践だ。また、「正しい教え」に反する見解を徹底的に封じ込めてやりたい。
と、まあ、そういうことのようです。
中途半端な知識で、安っぽいイデオロギーを振りかざすあなたはいったい何者ですか?
徹底的に学んだ司祭や牧師、大学の専門の先生方などは、安っぽいイデオロギーを持ち出したりしませんよ。
教会の、責任ある立場の方々にお願いしたいのですが、他教派や他の見解に口汚い非難を浴びせ続ける信者に、ちょっと注意していただけませんか。一部は、罵詈雑言の嵐になってます。(「教会の責任ある立場の方々」が率先して罵詈雑言の嵐のような説教をするようでは、もはやお話になりませんが。)
私は、原理主義も、一種の「自由からの逃走」かと思います。
自由な個人として生きることに苦痛を感じる人がいるのです。何らかの教えにすがり、よりかかり、自由な個人として責任を持って判断することから逃げて、無批判に「正しい教え」を信じ込むことで救われたつもりになっていたいのです。そういう自分を守りたいのです。
「正しい教え」を信じる仲間を増やし、異なる考えを否定しないと。
だから、自分が信じる「正しい教え」を相手も信じて「悔い改めて」もらおうと相手を責めるし、「正しい教え」と少しでも違うと逆上し、全否定で噛みついてくるのです。
原理主義者の家庭の二世、三世に生まれ、そういう環境で育った人もいるでしょう。
初代「信者」の場合だと、何か生活の中で思いどおりにいかないことがあって、不満をかかえて生きてきたのかもしれません。
(書きながら「エホバの証人」のことを思いました。似てます!)
そういう家に生まれた人は気の毒なのですが、私には、原理主義者は正面から問題に向き合おうとせずに安易な「真理」に逃げ込んでいるように見えます。
自分と違う主張に非難をぶつけ、私は彼らとは違って「正しい教え」を信じる「真理」の側にいると思い込み、自分を正当化し、自分は正しい信仰を持っているから救われていると考え、安心を得ようとしているように見えるのです。
私は、苦しいときに宗教に助けを求めることが駄目だとは思いません。
でも、それならそれで、信頼できる宗教の指導者や信頼できる信者に相談すべきです。
原理主義信仰に逃げ込む現実逃避が、人の「救い」なのでしょうか。
原理主義を宗教と呼ぶなら、宗教は民衆のアヘンでしょう。
心の痛み、苦しみを、感じなくする鎮痛剤としてのアヘンです。鎮痛効果はあるけれど、治療薬ではありません。
鎮痛剤で痛みをごまかしているうちに、患部はますます悪化してゆく。それで、もっと強い薬を使う。
しまいには、カルト化です。
ネット右翼やヘイトスピーチ団体とも似ているように思います。困ったことです。
キリスト教は、その程度の水準の宗教なのですか?
原理主義化し、カルト化するような水準の宗教なのですか?
「リベラル派は信仰より理性を上に置いているから間違っている」ですって。
理性は神が人間にお与えになったものではない、とでも言いたいのですか?
人は、ただ、言われたとおりに盲信していればよい、自分の頭で考えてはいけない、ということですか?
ただ無批判に信じ込むことがその人にとっての「魂の救い」なのですか?
造り主である神が与えてくださった理性を否定するのが信仰?
自分の頭で考えないことが信仰?
あなた方が言う意味での信仰とは何ですか。
ひたすら過去はこうだったと、後ろばかり見て、現代や未来に目を閉ざすことですか?
古代や中世の人たちの神話的な世界観をそのまま信じて、科学的な検討を否定することですか?
強引に、過去の価値観を、現代や未来に当てはめることですか?
自分たちと異なる意見に罵詈雑言を浴びせ、それを神の愛の実践だとか伝道だとか思うことですか?
真実に立とうとするなら、何も恐れはないはずなのに。
それが本当に正しいなら、齟齬は生じないはずです。
あなたがたは恐れています。批判的な意見や聖書の科学的な研究で、信仰が破壊されるのではないかとおびえています。それは、真実に立とうとしていないからです。自分たちが「正しい教え」だと思い込んでいる先入観を守るのに必死だからです。
福音は、人に恐怖心を与えるものですか?
おびえながら、必死にしがみつくものですか?
喜びではないのですか?
私は、ホアン・マシア師にも、本田哲郎師にも、イエス・キリストに従って生きてゆこうとする強い信念を感じます。そして、彼らを動かす神というものが、本当におられるのではないかと感じます。立場に違いはあっても、こうした方々の見解に、私は励まされています。
しかし、カトリック信者と称するあなた方の非難をいくら読んでも、イエス・キリストを感じません。神の働きも感じません。「カトリックの中にもファリサイ派みたいなのがいるんだな~」と思うだけです。
たぶん、カトリック教会全体の中で、コチコチの原理主義者はごくごく一部でしょうけれど。
私は直接は会ったことがないんです。ネットで見かけるだけで。ごくごく稀な、特に例外的な「信者」ではないかと思います。
もしかすると、反カトリック勢力が、カトリックを貶めるために信者になりすまして書き込んでいるのでしょうか? まさか。
現代のカトリック教会は穏健で寛容なのが普通です。
私は、中部地方にいたときも、関東地方にいたときも、フィリピンにいたときだって、カトリック教会の神父さんやシスターや信者さんたちから親切にしていただきました。感謝しています。
現代のカトリック教会を非難するつもりはまったくありません。
私は、自分を正しい信仰者だと思い込んで他者を断罪する自称「カトリック信者」の原理主義者たちを批判するのです。
原理主義者の姿勢は、プロテスタントの自称「福音派」と共通します。エホバの証人とも共通します。カトリックかプロテスタントか「異端」かの問題ではないようです。
あなた方が憎いのではありません。
あなた方も被害者なのかもしれないと思います。
でも、被害者が、自分流の「正しい教え」の「伝道」によって、他者を責めたり支配したりすれば、加害者になってしまうのです。
目を覚ましてください。
(伊藤一滴)
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