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「国が道徳を教科化? 笑っちゃいますよ」

きのうの朝日新聞に、美輪明宏さんが書いてました。まったく当たっているので、引用します。(2017.8.30朝日新聞「オピニオン&フォーラム」美輪明宏 山形県内配布の版)

引用開始

(略)・・・・こんな政治で、国が道徳を教科化? 笑っちゃいますよ。ヒステリーをおこし、「記憶にございません」と言っていれば大丈夫だと教えるんですか。政治だけではありません。いじめで自殺した子がいるのに、保身に走る教育委員会。金もうけ主義で、暴力やグロテスクな表現ばかりの漫画やゲームや映画。お前のためだと言いながら、自分のミエや人生の尻ぬぐいのために、子どもを塾にがんじがらめにする親。大人がやるべきことって、そういうことなんでしょうか。(以下略)

引用終了

「都合の悪いことはなかったことにする」「仲間を優遇し、批判者には法的に、または人事で制裁を加える。あるいは恫喝し、委縮させる」「仲間の違法・脱法、不正行為、不適切な行為は、なかったことにする。なかったことに出来なければ、屁理屈で正当化する」等々。内閣が率先してやってませんか。この内閣と似た体質が、教育行政を含む諸官庁の中にありませんか。上が率先してやってるんだから、いじめなど、なくなるはずがありません。道徳は、まず、内閣総理大臣や政府高官らが学んだほうがいいでしょう。

この国では、もうかればそれでよい人たちが力を持っています。子どもたちが、スマホ漬け、ゲーム漬けになってもいいのです。売れればもうかりますから。放射性廃棄物の処分法など決まらなくても、原発は再稼働させてよいのです。もうかりますから。

そして親たち。私が子どもの頃から「勉強は自分のためより親の見栄」と言われ、皮肉られていました。見栄のため、あるいは自分が出来なかったことを代わりに子どもにさせようとして(それも見栄か)、子どもの人格をゆがめるような「教育」をする親がいました。今も、いるのでしょう。教育は、「脅育」「狂育」などど書かれ、皮肉られました。私でさえ、自分が受験生の頃は「偏差値の高い学校は優秀な学校」だと思ってましたよ。あれっ?、と思ったのは、キリスト教系大学の神学部の偏差値が意外に低いのを見たときです。人数は多くありませんが、日本の神学や聖書学の研究水準が高いことは私も知っていました。超難関とされている大学を卒業後に神学部に入る人もいますし、先に神学部で学んでから、海外の名門大学・大学院に行く人もいます。学問の水準が高いのに、なんで偏差値が高くないのか。人数が少ないと偏差値が正確に出ないというのもあるのでしょうが、それより何より、「その学校のその学部を出るともうかる」と思われると、偏差値が高くなるということに気づきました。たしかに、神学部を出て、牧師や司祭、宣教師などになっても、もうかりません。偏差値って、学問の水準ではなく、将来もうかると思われるかどうかの指標だと気づいたのでした。偏差値主義というか偏差値中毒というか、どっちが上だの下だのと大騒ぎしている人たちがいますが、偏差値とは、しょせんその程度のものです。将来もうかると思われる評価であり、もうかる保証ですらありません。仮にもうかったとしても、そもそも、もうかることとその人の幸福とは比例していません。

話を道徳に戻しますが、道徳とは、教室で教えて採点するようなものではなくて、範となるべき人が範となって示すべきものでしょう。

内閣、官庁、財界、親・・・・、範になってますか?

(一滴)

 

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