ハンセン病への「空気」と「牧人権力」 武田徹『「隔離」という病い』に思う
武田徹『「隔離」という病い』は、考えさせられる一冊です。
途中から神谷美恵子のことも出てくるのですけれど・・・・。
なにより私は、近年話題の、「空気」(その場の雰囲気や時代の風潮)だの「空気を読む」だのに不気味なものを感じます。著者の武田氏が空気という言葉を使っているわけではないけれど、それって、つまり空気だな、と私は思います。
かつて、ハンセン病は危険な病気だから患者を隔離すべきだという、医学的な客観性を欠いた空気があり、その空気を煽り、強制隔離を推進した人たちがいて、患者は著しく人権を蹂躙されました。やがて空気の風向きが変わり、伝染病患者を隔離すること自体が間違った考えであり危険な考えだという空気が広がり、今は、過去の隔離政策に協力した人や反対しなかった人を非難しないといけないような空気です。
空気の流れを作り出す人もいれば、それに乗るマスコミも大衆もいます。
客観的な検討より、空気が力を持つ世の中って、何でしょう? 不気味です。
かつて、それが善だと信じて、今日の人権感覚からすればかなり問題のあることをした人もいました。でもその人はその時代の空気の中で生きた人です。
もともと善意から出発し、その後も悪意などみじんもなかったであろう光田健輔(みつだ・けんすけ)にしても神谷美恵子にしても、かつての空気の中で世間から称賛され、その後の空気の中で非難されているように思えます。
武田氏によれば、フーコーが論じた牧人権力(注)が光田健輔らに当てはまるのだそうです。フーコーの著作を多数翻訳した博識の神谷美恵子まで、まさにそのフーコーが指摘した牧人権力の側に加わっていたとしたら、何とも皮肉な話です。
敬愛する神谷美恵子先生を悪く言いたくないのですが、もう少し考えたいです。(未完)
(伊藤一滴)
注:牧人権力(まきびとけんりょく):羊の群の牧人がそれぞれの羊に心を配るように、各個人を内面からとらえて常に監視するような権力のあり方を言う。このあり方は、キリスト教会における罪の告白を原型として近代国家に継承されたという。
補足:フーコーは、牧人権力を、国家が臣民を支配する権力のありかたの一つとみるのですが、国家と臣民のみならず、医者と患者、教師と生徒、もちろん牧師と信徒にも当てはまる場合があるようです。自分を牧人と思う側は、かよわい羊たちに手を差し伸べ、それぞれの羊に心を配るのです。もちろん悪意などありません。導こうとする側は善意で、こうあるべきだと決めて、それに少しでも反する者には厳しいのです。
光田健輔は冷徹な「隔離の鬼」でしたが、ただの弾圧者ではなく、勤務する施設の患者全員の名を覚え、心を配る人でもあったそうです。相反するような氏の両面について、彼は牧人権力をふるった人であったと考えると説明がつきそうですが・・・・。
上記の話を妻にしたら、こう言うのです。
「神谷美恵子さんはともかく、光田派のみんながそんなにキリスト教の影響を受けていたのかなあ? それって、キリスト教の影響っていうより家父長制みたいなものじゃないの。子どもは黙って父親の言うことをききなさい、子どものことは父親が一番わかっているんだ、父親の言うことをきいていれば間違いないんだ、みたいな。患者は黙って医者の言うことをききなさいっていう時代だったんじゃないの」
キリスト教の影響の有無にかかわらず、牧人権力のような権力があるなら、キリスト教会における罪の告白が原型とも言い切れなくなります。違う文化圏で、互いの影響がなく、似た考えになってゆくことがあるのです。封建社会という社会のあり方が似ているのだから、そこで成立した考え方も似てくるのだ、と考えることもできるでしょう。
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