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| ハンセン病への「空気」と「牧人権力」 武田徹『「隔離」という病い』に思う »
神父様、神父様。吉次郎です。こんな夜中にすみません。
吉次郎さん、ですね。私はかまわないのですが、あなたは大丈夫ですか。幽閉されている私と、夜中にこっそり会っていたなんて人に知れたら、お咎めを受けてしまいますよ。
今夜も、番人にはお金を渡しておきました。黙認してくれるでしょう。神父様のことを役人に通報したときに銀三百枚の報酬を受け取ったのです。賭博や酒にだいぶ使ってしまいましたが、なにせ三百枚ですから、まだ残っています。その一部を、わいろに使えば、役人たちは知らんぷりしてくれます。
銀三百枚、ですか。ユダがイエスを裏切ったときに受け取った報酬は銀三十枚でしたから、その十倍ですね。ははは、私にはずいぶん高い値がついたものです。
本当に申し訳ありませんでした。
いえ、あなたを責めるつもりはありません。外国人の司祭一人を差し出せば銀を三百枚も支払うくらい徳川幕府は切支丹の弾圧に躍起になっているのですよ。それに、密入国した私が貧しい切支丹農民にかくまわれて生活するには限界がありました。あなたが通報しなくとも、いずれ私の潜伏は発覚したことでしょう。
・・・・神父様。前回お会いしたとき、もっとお話ししたかったのですが、時間がせまっていてできませんでした。あのときの神父様のお言葉に納得できなかったから、今日、こうしてまた来たのです。今日はもう少しお話ししたいのですが、よろしいですか。
はい。
あのときの神父様のお話だと、神様は沈黙していたのではなく共に苦しんでおられた、ということになるのでしょうが、共に苦しまなくていいから天の軍勢を送ってほしかったのです。島原の信徒らが命を懸けて決起し、結果、幾万とも知れぬ人たちが死んでいっても、神様は何もしてくださらなかった。万軍の主と呼ばれる神が何もなさらないとはどういうことでしょう。信じる者たちの祈りに応えてくださらないとはどういうことでしょう。全能の神なら、千人隊どころか万人隊、百万人隊の神軍を送ることだって出来たろうに。百万人の援軍があれば、島原軍は圧勝し、圧勝どころか関東に攻め上って徳川様とその手下らをみな制圧し、日本全土を解放してキリスト教国を打ち建てることだって出来たろうに、どうして、そうしてくださらなかったのか、納得できないのです。多くの血が流されて島原は鎮圧され、全国で切支丹は固く禁じられ、それでも信じる者は弾圧され、このとおりです。納得できないのです。
吉次郎さん、神は、人類の個々の歴史に武力で介入したりなさらないのです。旧約の時代ならともかく、イエス・キリスト以降、神の働きの中心は、人の心に対するものなのです。私たちの主キリストが十字架につけられたときも、神は天の軍勢を送ったりしませんでした。もし、そんなことをしていたら、十字架の贖罪は成就されなかったことでしょう。最後には、愛である神が、導いてくださるのです。
愛、ですか。そんなことを言われても、まるで実感がわきません。
分かりやすく言えば、相手をねんごろに扱うこと、本当に大切にすること、それが愛です。神は愛であると、教えの中にはっきり書いてあります。
神様は私たちを本当に愛しておられるのでしょうか。ではいったい、この迫害は何ですか。神父様、今の日本のどこに愛があるのですか。切支丹禁制の日本は、まるで地獄です。
いいえ、地獄ではありません。地獄とは、愛も希望もない世界です。以前、私が何度も何度も読んで暗記したコリント前書の十三章に、パウロはこう書いています。「たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。これが新約に記されたパウロの言葉です。いいですか、吉次郎さん。信仰と希望と愛、この中で、いちばん大切なものは愛なのです。
ですから、神父様。いったい、今の日本のどこに愛があるというのですか。
愛がないと嘆くより、まず私たちが、愛の実践者になるべきです。私は踏絵を踏みました。私たちの最も大切なお方を踏みました。でもそれは、私にとって、本当につらい愛の実践だったのです。もし私が踏絵を踏まなければ、私の身代わりに拷問されている切支丹農民が虐殺されるところでした。それでも踏まなければ、次の人が拷問されて殺され、また次、また次と、いったい何人の犠牲者が出たかわかりません。フィリピンや中国やインド、あるいはヨーロッパの安全な場所にいる教会の指導者らは、私を裏切り者と責めるかもしれませんが、あの場にいなかった彼らに、私の思いがわかるものですか。私自身は、自分がどんな拷問を受けても屈しないで死ぬ覚悟でしたが、私の代わりに、ほかの人が死ぬまで拷問され続けるのは耐えられませんでした。私が踏絵に足をかけようとしたとき、「踏むがよい」と、踏絵のあの人が言ったのです。いや、「踏みなさい」と言ったのかもしれません。あの人は、「私はあなたがたに踏みつけられ、殺されるためにこの世に来たのです。あなたがたの苦しみをこの身に背負うために十字架にかかったのです」と言ったように感じたのです。目の前に十字架のキリストが見えました。私は、ここで踏むことが、みこころであると思い、踏絵に足を乗せたのです。
私はどうすればよいのですか。私のような、どうしようもない臆病者が、どうすれば、今のこの日本で、愛を実践できるのですか。
神はすべての人が救われることを望んでおられます。そのために出来ることがあるはずです。
神の救いについても、前回、納得できませんでした。あのときの神父様のお話だと、その人が切支丹であろうがなかろうが、良心に従って生きようとする人はみな救いのうちにある、ということになります。信仰がなくても救われるということになります。それでは十字架のあがないの意味は何ですか、いったい何のために信仰が必要なのですか、何のためにイエス様の教えが必要なのですか。何のために信者は弾圧され、苦しんで死んでいったり、売られたりしたのですか。まったく、納得できないのです。
私もうまく言えないのですが、救いのうちにある自分を知り確かな道を歩むために、信仰は必要だと思います。
信仰がなくても救われるのに、それでも信仰が必要なのですか。
自分が、神によって造られた者、神の愛の中に生きる者であるとわかれば、自分というものがわかってきます。人はいつも、決断の状況の中で生きているのですが、そのときの自分の置かれた状況のもとで、どう判断し、どう行動するのか、それが問われるのだと思います。
では苦難の意味は何ですか。人を向上させるための試練といった程度のものでなくて、前回、神父様がおっしゃっていたような、家族を殺され、自分も拷問されたり、殺されたり、売られたりするような、耐えがたい苦しみです。なぜそれほどの苦しみがこの世にあるのですか。しかも、心から神を信じる者が、なぜこれほど苦しむのですか。
私も幽閉中、苦難の意味についてずいぶん考えました。前回あなたとお会いしたときは、踏絵を踏んだ直後で、私も混乱していて、福音伝道の意味も、苦難の意味も、答えられないというか、やや、自暴自棄的なところがありました。幽閉され、時間はたっぷりありますから、あれから落ち着いて考えてみたのです。本来なら、苦難というものは、みんなで少しずつ負うはずの重荷なのに、ある人たちが集中して負ってしまっているのではないかと思えてきました。特定の地域、人種、民族、宗教、家系、性別、病気や障害の有無、思想信条等々で、人と人とが分断され、ある人たちに苦難が集中するのはおかしいのです。人はみな神によって造られた者、神のもとに平等であるはずなのに、ある人たちにばかり苦難が集中し、そうでない人は知らん顔というのは神の義に反します。私は、苦難の中にある人に接したら、自分はああならなくてよかったと思うのではなくて、あの人が私に代わって重荷を負った、と思いたいのです。私は、苦難の中にある小さき人の一人ひとりの中に、私たちの代わりに苦しみを負ったキリストを感じるのです。
神父様。まだわからないことがたくさんあって、もっともっとお聞きしたいのですが、もう夜明けがせまっています。また来ます。どうか、お元気でいてください。
あなたこそ。
(伊藤一滴)
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