「続・沈黙」 吉次郎との対話
神父様! 神父様! 私です。吉次郎です。また伺いました。
あなたでしたか。吉次郎さん。私は、幽閉されている身です。見張りの者に見つかると面倒なことになりますよ。
番人にはお金を渡しておきました。今夜は、黙認してくれるでしょう。そのお金は・・・・、神父様を役人に売り渡したときの報酬の一部ですけれど・・・・。お願いです。告解したいのです。どうか聞いてください。
せっかく来ていただいて申し訳ないのですが、それはできません。
できませんって・・・・、どうして聞いていただけないのですか。
以前も申し上げた通り、私はもう司祭ではないからです。私は踏絵を踏みました。信徒の農民たちを助けるため、やむを得なかったのです。踏んだのは形だけで、まことの神を裏切ったつもりはありませんが、それでも、教会や修道会から見れば私は背教者です。背教者の私は、もう司祭ではありません。告解を聞いてゆるしを与えることはできないのです。
だって、司祭叙階はサクラメント(秘跡、聖礼典)で、いったん執行されたサクラメントが後から取り消されるなんてないはずです。私はそう教わりました。
理屈の上ではそうでしょう。しかし、職務停止の処分があるのです。司祭としてのすべての職務を停止されたら、司祭でないのと同じです。私は司祭職のすべてを生涯にわたって停止された司祭ですから、そういう意味で、もう司祭ではないと申し上げたのです。
それは、正式なご処分ですか? ローマの当局者やイエズス会が正式にそのような決定をし、通知してきたのですか。その通知を受け取ったのですか。
いいえ、受け取ってはいません。禁教下の日本で幽閉された今となっては、私に通知することは不可能でしょう。
だったら、通知を受けていないのですから、あなたは司祭です。告解を聞いてください。
それは・・・・。
神父様、私は弱いのです。これは、努力でどうこうできることではなくて、どうがんばってみても、自分を強くすることができないのです。生まれつき、体の強い人も弱い人もいるでしょう。それと同じように、心が強い人も弱い人もいるのだろうと思います。虚弱体質に生まれた人、身体や知能に障害を持つ身に生まれた人に向かって、それは罪だとか、努力が足らないのだと言えるでしょうか。生まれつきの同性愛者に、あなたはそのように生まれついたのだから地獄に行くと言えるのでしょうか。自分で選んだのではなく、生まれつきなのです。それは、先天性の盲人に、目が見えないのは罪の結果だと言うのと同じではないのですか。選べないのです。なりたくてなったのではないのです。私は、精神的に弱く生れました。努力ではどうにもならないのです。はい、あなたを銀三百枚で売ったのは私です。切支丹の村を役人に通報したのも私です。村の人たちは連行され、村は焼かれ、あなたもとらえられました。すべての原因は私です。お金が欲しかったからではありません。怖かったのです。目の前で殉教していった人たちを見ました。斬られた人、熱湯の中に投げ込まれた人、はりつけにされて放置された人もいました。はりつけにされた人は、最初は祈ったり讃美の歌を歌ったりしていましたが、少しずつ弱っていって、死んでいきました。それでも、神は、何もお答えにならず、空も地も海も静かでした。はりつけの遺体はそのまま放置され、膨らみだして異臭を放ち、カラスや野犬が食い荒らし、うじがわいて、化け物のような姿でさらされていました。棄教を拒んだ若い娘らも、気の毒でした。水責めにされたり逆さづりにされたり、さんざんな拷問を受け、むごい目にあいました。それでも最後まで屈しなかった娘が三人いたのですが、この三人は縛り上げられ、数珠つなぎにされて、どこかに連行されていきました。村の者が、どこに連れてゆくのかと役人に聞いたのですが、教えてもらえませんでした。噂では、異国に売られたのではないかとのことでした。いったい神様は、人間に何を望んでおられるのでしょう。さんざん拷問されたあげくに売り飛ばされ、遠い異国で女奴隷にされて、それでも信仰を貫けとおっしゃるのでしょうか。死んだら救われて天国に行けると言ったって、生きている間、苦しみの日々が続くのです。そんな目にあうなら死んだ方がましだと思っても、切支丹は自ら死ぬことさえ禁じられています。あの娘たちに比べたら、殺された人の方が、良かったとさえ思えてきます。・・・・私には、殉教者になる勇気もないし、強い意志もありません。弱いのです、怖いのです。密告の報酬の銀三百枚の大半は酒や賭博に使ってしまいました。そうやって、気をまぎらわそうとしても、だめでした。ただ、むなしく、苦しくなるばかりでした。キリストは弱い私のために、私の罪の贖いのために十字架で命を捨てたのだと思っても、それでも私は弱いのです。どうすることもできないのです。もし切支丹が禁じられていない日本だったなら、あるいは、あなたの祖国ヨーロッパにでも生まれていたなら、私はちゃんと教会に通い、平凡な庶民の一人として生きることができたでしょうに。神様は、どうして、私のような弱い人間をこれほど苦しめるのでしょうか。神様を信じる者たちがこれほど苦しんでいるのに、どうして黙っておられるのでしょうか。神様はいったい何のために人間をお造りになったのですか。私たち人間に苦しみを与えるためですか。私のような人間は、生まれつき地獄に落ちるように定められた者として造られているのですか。
吉次郎さん。私だって、苦しみ、悩む人間の一人です。今あなたがおっしゃったことを重く受け止めます。即答できなくてごめんなさい。私は、私で、ずっと考えていました。私は日本の人たちのために働きたいと思って、秘かにこの国に上陸しました。でも、その結果は、貧しい切支丹農民から食糧を分けてもらっての潜伏生活でした。パンもぶどう酒もなく、かくまってくれている信者らに、キリストの体であるパンを授けることさえできず、自分の非力さが悲しくなりました。果たして、私は人の役に立ったのでしょうか。ただ、迷惑をかけただけなのかもしれません。私が来たせいで、私をかくまった人たちも含めて多くの人が捕えられ、拷問されたり、殺されたりしました。あなたも苦しんだことでしょう。もし私たち宣教師が来なければ、あなた方はひどい目に遭わずに済んだでしょうに。私は、マタイ伝の二章にあるイエスの誕生のことを思いました。イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったときの話です。ヘロデ王は、ユダヤ人の王として生まれたというイエスを殺そうとして、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしたと書いてあります。イエスの誕生によって殺された子やその親たちにとって、主の御降誕は救いどころか苦しみでしかなかったことでしょう。ある人にはそれが福音でも、別な人にとっては、命を失うような災いなのかもしれません。いったい、ある人に多くの苦しみを与えてしまう福音伝道とは何なのかと思えてきたのです。今の私には、もう、世界に向かって伝道することの意味がわからないのです。ですから、資格どうこう以前の問題で、私はもう、司祭ではないのです。それに、私も・・・・、神の沈黙を問いました。そもそも神は存在するのだろうかと問いました。そんな問いを発する私は、もう司祭ではありません。神様なんて、人が考え出したもので、本当はいないのではないかとさえ思えて、殉教した同僚や兄弟姉妹の死が、こっけいに思えたのです。存在しない者のために命を捧げた馬鹿馬鹿しい死なのかもしれないと・・・・。尊い死をそんなふうに思う私など、もう司祭には値しないのです。
神父様。福音のゆえに苦しむ人がいても、信じる者はみな救われて、天国で永遠に生きるはずです。私は、残酷な場面に出会うたびに自分にそう言い聞かせてきました。
いや、だからといって、福音のゆえに苦しむ人がいてもいいという話になるのでしょうか。それも、自分を向上させるための試練といった程度の苦しみではなくて、家族を殺され、自分も死んでいくような苦しみであったり、拷問されたあげく異国に売られたりするような苦しみなのです。私は、そうまでして福音を宣べ伝える必要があるのだろうかと思うようになったのです。福音を信じることと、人が救われることとが、直接結びつくのかさえ疑問に感じるようになったのです。役人たちは私を転向させるためにあらゆる手を使いました。仏教の教えも聞かされました。最初は無理やり聞かされたのですが、聞いているうちに、筋の通った話に思えてきて、果たして、仏教は間違ったことを教えているのだろうか、と思ったのです。仏教の教えはキリスト教とは違いますが、彼らは彼らなりに道を求め、真理に向かって進んでいるのではないかと思えてきたのです。仏教を信じて誠実に生きた人を、単にキリスト教徒ではないという理由だけで、神は御救いから排除するのでしょうか。そんなふうに、碁石を白と黒に分けるみたいに、こっちはキリスト教徒でこっちは非キリスト教徒、こっちは天国に入れてこっちは入れないと、人を単純に二つに分類なさるのでしょうか。もし神がそんな者なら、神は愛であると言えるのかと思えてきたのです。
・・・・。
私は、踏絵を踏んでから、神というものが今まで思っていたのと違うと感じました。吉次郎さん、あなたが信じている神とは何でしょう。「日本にはキリスト教は根付かない、苗を植えても根が腐る、日本でキリスト教を説いても、神の教えは土着の信仰と混じり合って異質のものに変質する」と言った人がいました。でも私は思ったのです。そんなことを言うなら、イエスがパレスチナの地で説いた福音はヨーロッパに伝えられ、そこでヨーロッパ流の別の宗教に変質した、という話になるのではないかと。異国に伝えられて異国の風習と混じったかのように見えても、イエスの教えを受け継いでいる限り、それはまことの福音ではないかと。先輩の宣教師らが真の福音だと思って日本に持ち込んだのは、実は、ヨーロッパの風習と混じりあった福音だったのでしょう。それを、日本には根付かないと嘆いたのでしょう。
・・・・。
私は、神学生の頃、過去に異端とされた人たちについて教えられました。異端の教えは間違いであると。しかし、今の私は、これまで異端とされた人の中には、真剣に神を信じて悩み、考え、真実を求めた人も多かったのではないかと思うようになりました。彼らは、ヨーロッパで世俗化されていった教会の教えを脱し、まことの道を求めたのではないかと・・・・。私は今も神を信じています。ただ、カトリック教会が公式に教えている神とは、ちょっと違うかもしれません。彼らは私のことを異端と呼ぶかもしれません。
神父様はオランダ人たちの宗門にでも改宗なさったのですか?
いや、新教の教えを受け入れたというのではないのです。神というものが今まで思っていたのと違うと感じているのです。
神父様。私は、切支丹の教えを信じて生きてきました。いつもローマ教会の教えに忠実だったとは言えません。でも、少なくとも、教えを守りたいという思いは持ち続けて生きてきました。自分の弱さゆえ、仲間を裏切ったこともたびたびですけれど、そのたびごとに激しく悔いて、ゆるしを願い、神父様を訪ねたのです。神父様がおっしゃるように、「神というものが今まで思っていたのと違う」とか、オランダ人らが奉じる新教を受け入れたのでもないというのであれば、いったい私は、何を信じればいいのですか。
私はずっと、「教会の外に救いなし」と教えられてきました。しかし、テモテ前書の二章にもあるように、教えの中に、「神はすべての人が救われて真理を悟るようになることを望んでおられる」とも書いてあります。神がすべての人の救いを望むなら、すべての人に、何らかの形で、救われる機会があるはずです。その人が切支丹であろうが、なかろうが。「教会の外に救いなし」と言うときの「教会」とは、建物や組織を超えたものであり、神の恵みが及ぶ所はすべて広い意味で「教会」と呼んでいいのではないかと思うようになったのです。つまり、この世界のすべてに救いがあるということです。異教の国でも、禁教下でも、また、その人が切支丹であろうが、なかろうが、良心に従いまことの道を歩もうとする人はみな神の救いのうちにあるのです。
・・・・私は、どうしたらいいのでしょうか。いったい、どうしたら、いいのでしょうか。
これはゆるしの秘跡ではなく私の個人的な考えです。いいですか、吉次郎さん。神はあなたをゆるしておられます。主は沈黙していたのではありません。弱い私たちと共に苦しんでおられたのです。私には、それがわかります。あなたは、もう、ゆるされています。だから、安心してお行きなさい。
神父様。お言葉ですが、納得できません。神様なんだから、私たちと共に苦しまなくていいから、天の軍勢を送ってくださればよかったのに。島原の信徒らが命を懸けて決起し、幾万人も殺されていった時だって、天草四郎様はじめ名のある方々が死んでいかれた時だって、神様は何もしてくださらなかった。神の恵みが及ぶ所すべてに救いがあるですって。そんな話も納得できません。だったら何のために信仰が必要なのですか。いったい何のために、信者は苦しんで死んでいったのですか。あの娘たちは何のために拷問されて異国に売られていったのですか。まったく、納得できません。
(伊藤一滴)
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