落ちるところまで落ちるのか
私が学生の頃、「正しい」のか「誤り」なのか、これはとても大事なことでした。相手の主張が「誤り」であることを論証すれば、「正しい」側が勝ちでした。
今はどうでしょう。「正しい」主張をする側と「誤り」の主張をする側がいて、「誤り」の側が勝つことも珍しくなくなってきました。
事実に反することを語っても、大衆受けする話であればそれが支持され、一定の勢力になるのです。
大衆は、事の正誤にあまり関心がないようです。
今の日本もアメリカも、「誤り」の主張であっても、それを強く主張して相手を圧倒した側が「指導力がある」とされて勝つような、そんな世の中になってきました。
だから、立憲主義も、法の秩序も、法的安定性も、慣行も関係ないのです。それが事実なのかどうかさえ関係ないのですから。
ヒトラーを支持したドイツ国民、ムッソリーニを支持したイタリア国民、かつての日本軍部を支持した日本国民を思わせるものがあります。
こうしたファシズム的勢力は、反対する多数の国民を力づくで抑えたのではありません。大衆から広く支持されて権力の座に就いたのです。気がついたときには、反対意見など言えなくされてしまっていたのです。「国民は知らなかった」「だまされた」「こんなことになるとは思わなかった」等々はあとからの言い訳です。
落ちるところまで落ちていかないと、目を覚まさないのでしょうか。
その時は反対意見など言えなくされるのでしょう。
日本人やアメリカ人は、そんなに自分たちの国を「1984」みたいにしたいのですか。(「1984」はジョージ・ウォーエルの小説の題名)
一歩誤れば、どこまでも落ちていって破局まで行くような、そんな危険と背中合わせで生きているのに。
それでも私は、復元力が働いて理性が勝つ日が来ることを信じています。
(伊藤一滴)
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