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認知的不協和

認知的不協和(にんちてきふきょうわ、英: cognitive dissonance)という言葉を最近ネットで知りました。

「人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語」だそうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%8D%94%E5%92%8C

心理学や精神医学にはまったく疎い私ですが、何でこんな言葉を知ったのかというと、世の中に種々の屁理屈、こじつけ、こじつけにも値しない非論理的な主張がまかり通っているので、なぜそんなことになるのか知りたくて調べているうちにこの言葉を知ったのです。

認知的不協和と呼ばれるものを、私も感じたことがあります。たいていの人にあるのではないかと思います。私自身のことで例をあげれば、一つは、「凶悪犯罪が年々減っている」という事実に感じた戸惑いです。事件が起こると、マスコミがセンセーショナルに報道するものだから、凶悪犯罪は減っていない(あるいは増えている)ような印象がありました。これは、私が間違った印象を持っていたのです。あとは、「東北の日本海側の山間部は自殺率が高い」と聞いたときも、「そんなはずはない、何かの間違いではないか」と思いました。私自身、東北の日本海側の山間部に住んでいて、近所の人たちから親切にされているし、自然の恵みも豊かで住みやすい場所だし、そんな馬鹿な、と思ったのです。それまで都会の方が自殺率が高いとばかり思っていました。でも、統計の事実は事実です。長くて厳しい冬、大雪や酷寒、鉛色の陰鬱な空、そして鬱蒼とした針葉樹森。近隣の人たちと親しいがゆえに、かえって悩んでいる自分を見せたくないという状況、こういったことが重なるのかもしれません。統計の事実を前に、私は自分の認識を改めました。

認知的不協和をどう解消するかが問題なんです。自分の思いと違う情報の方が事実だとわかったら、自分の側の認識を改めれば問題ないのです。

困るのは、自分の考えと違う事実に出会ったとき、明かな事実のほうを否定して、自分の思い込みを正当化し、矛盾をなくそうとすることです。そうした形での認知的不協和の解消は、事実のねじ曲げですから、問題の解決にならないどころか有害でしょう。そういう困った人は以前からいましたが、最近はネットの発達もあって、この、「事実のほうを否定して矛盾をなくそうとする」主張がやたら多く感じられるのです。

真実と虚構がまるで対等であるかのように語られ、時々、虚構のほうが勝つような、そんな世界に我々は生きています。

こんな時代に、真理を追究することに意味があるんだろうか、真実を求めて主張することに意味があるんだろうか、と、思えてしまうこともあります。

でも、最後に勝つのは真実です。やがて歴史がそれを明らかにします。百年かかるか、二百年かかるか分かりませんが・・・・。

(伊藤一滴)

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