愛の反対 その1 「塩狩峠」
愛の反対って何だろう?
マザーテレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」とおっしゃった。関心がないものを憎んだりはしないから、憎しみの感情を持つこと自体、そのものに関心を持っているのであって、憎しみが転じて強い関心になったり、場合によっては深い愛情になったりすることもあるのだろう。
三浦綾子著「塩狩峠」の主人公の永野。キリスト教を憎み、やがて自分が憎んでいたキリスト教を受け入れ、キリスト教信仰を貫いた(注)。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です」というのは、ひとつの答えだろう。
(注)小説ですが、塩狩峠の列車事故の場面は実在のモデルがいます。長野さんという方で、坂を登る汽車の連結器が外れて逆走した客車を止めようとして、下敷きになって亡くなっています。これは、事故死の可能性もあります。長野氏は列車を止めようとしてハンドブレーキを回し、凍ったデッキで足を滑らしたか、あるいは(ブレーキは正常に作動し)急停止のはずみで線路に転落したのかもしれません。小説では、わが身で列車を止めようとして飛び降りたことになっていますが、実際は、可能性としては五分五分だろうと思います。仮に事故死であっても、乗客を助けようとして必死になってブレーキを回し、列車を減速(あるいは停止)させ、本人は下敷きになって死に、他の乗客はみな助かっていますから、尊い死であることに変わりはありません。ただし、長野氏はキリスト教の宣伝のために死んだのではないのだから、氏をまるで戦没英霊のように崇め、キリスト教の(特にキリスト教原理主義の)宣伝に利用するのはやめてもらいたいです。
(伊藤一滴)
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