宗教について思うこと
「あなたは仏教を信じていますか?」とか「キリスト教を信じていますか?」とか、いきなり聞かれても、よほど親しい人は別として、そのような質問をする相手が宗教をどのように認識しているのか私には解りませんから、私は、信じているとも、信じていないとも、答えられません。
「神を信じる信仰を宗教と言うなら、仏教は宗教ではありません」
と言う人もいるし、
「キリスト教は宗教の一種ではありません。真理です」
という人もいます。
その宗教の本質や定義を明確にしようとしても、信仰者の数だけ見解があるような感じで、つかみどころがありません。
以前、「梅原猛さんへの若干の反論」を書き、
そのあと、「宗教について」という題で思うことを書きました。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2006/12/post_85bb.html
2006-12-26
仏教に関しては書いた通りで、キリスト教に関しては、キリスト教の限界はよく誤解されるような「人間中心主義」ではなく「イエス・キリストの十字架の贖い」を唯一の救いと考える教義の絶対性ではないのか、という意味のことを書きました。
この話の続きを書きたいと思いながら、6年半も経ってしまいました。今まで、こんなに長くほったらかしにしておいて、何を今さらという感じもしますが、前回、内村鑑三のことに触れ、内村の著作を開いてみて、宗教の発生や展開について、また一神教の絶対性について、やはり、自分が思っていることを書いておきたいと思いました。
内村鑑三は無教会主義で有名ですが、プロテスタントの諸教派や、正教会、公教会、キリスト教以外の宗教や思想にも寛容な人でした。内村が明治時代に書いた文章の中に、第二次大戦後のキリスト教界で広く言われるようになったエキュメニズムを思わせる表現もあり、その先見の眼に驚いています。
プロテスタント神学のカール・バルトやモルトマン、カトリック神学のカール・ラーナー、第二バチカン公会議の諸文書などに見られる他者への寛容性は有名ですが、もっと古い時代から、キリスト教内部には他者に寛容であろうとする考えがありました。
古くから寛容を求める声があったから、それが後のエキュメニズムにつながっていったとも言えるでしょう。
そのあたり、もう少し考えてみたいのですが、私がこの世で使える時間も限られています。
まずは、宗教の発生や展開や一神教の絶対性について、思うことを述べてみたいと思います。
(続く)
(伊藤一滴)
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