宗教について
『梅原猛の授業 仏教』[朝日文庫2006]を読みました。
とてもわかりやすい仏教の入門書です。
こちらもかなり手厳しい一神教(キリスト教やイスラム教)への批判が出てきます。批判のある面は、当たっていると思いますが、基本的に私の考えは変わりません。
宗教がなければ文明はない、道徳もない、という主張。ドストエフスキーからの引用だそうですが、はっとしました。たしかに、宗教的な基盤をまったく持たずに成立した文明も、宗教色を排してうまくいった道徳も、聞いたことがありません。
宗教を含めた文化のあり方を、その地域の気候風土に求める考えは以前からありました。梅原さんはさらに進め、ある種の気候風土の要因を食文化に求めています。逆ではありません。
肉と小麦を食べる食文化が、森を切り開き、畑や牧草地を拡大させる。長期的には、大地が乾いてくる。やがて砂漠化する、という考えです。これが一神教の風土だそうです。
米を食べる民族は森を守り、森を水源とした水を確保する。自然との調和です。これが多神教やアジアの仏教の風土だそうです。
宗教の発生には、食文化や気候が大きく影響することを否定はしませんが、その後の展開は、さまざまな要因が関連すると思います。だから、そう単純に割り切っていいのかな、という気もするのですが、原因と結果について食文化を先に考えるというのも、はっとさせられた見解です。
実際のところ、宗教の発生はともかく伝播については、たとえばマレーシアとタイで気候が大きく違うとは思えませんが、一方は一神教のイスラム、一方は一神教でない仏教の文化圏を形成しているといった例もあります。
いささか乱暴に聞こえるかもしれませんが、私は、万物を「神の被造物」とするキリスト教の考えも、「草木国土悉皆成仏」という日本仏教の発想も、そう違わないと考えています。
専門化が検討すればいろいろな違いもあるのでしょうが、私のような一般人が素直に受け取るレベルでは大きな違いはない、と考えます。どちらの考えに立っても、万物は尊いのです。万物は尊いということが大事なのであって、それを仏性と言うか神のみわざと言うかは、表現の違いに過ぎないと思えるのです。キリスト教では、万物に神の霊が宿るとは言いません。また、人間や動植物や無機物が神になるという考えもありません。しかし、「万物に神の働きを感じる」という考えはあります。それは「万物は神の被造物」と考えるからです。
万物を人間に従わせるという人間中心の考えは、人間を神の座に置くことであり、キリスト教の理念からの逸脱です。一口にキリスト教といっても内部にいろいろな考えがありますが、大多数のキリスト教徒は「デカルト哲学はキリスト教の理念に反する」と考えることでしょう。
梅原猛さんが一生懸命非難する「キリスト教」は、実は、「逸脱したキリスト教」だと私は思います。
以前から思っていたのですが、その人が、どの宗教・どの宗派に属するかではなく、理念を追求していくと同じような所に行き着く人が出てくるのではないか、という気がします。
仏教の六波羅蜜・十善戒と、モーセの十戒や福音書の道徳観は、大きく違うとは思えません。
福祉の勉強をしていた頃、宗教思想が福祉にどう影響したのかを調べていて法然や親鸞の言葉に出会い、聖書の言葉と似ているのに驚いたことがありました。特に野間宏さん訳の『歎異抄』[当時、筑摩書房刊]は感動的で、読んでいて涙が出ました。中央公論社の日本の名著シリーズの法然や親鸞の著作も読みながら、法然や親鸞はイエスの教えを知っていたのではないかと、その時、本気で思いました。あとから、遣隋使や遣唐使が中国でキリスト教の影響を受けて日本に帰国し、キリスト教的な発想や概念が、何らかの形で日本仏教に受け継がれたのではないかという説があるのも知りました。それは興味深い想像で、可能性としてはゼロではないのでしょうが、むしろ、宗教は違っても、理念を追求していくと同じような所に行き着く人が出てくると考えたほうが説明しやすいと、今は思います。
学生に広く読まれていた倉田百三(くらたひゃくぞう)の名著『出家とその弟子』[岩波文庫、他]も、キリスト教と日本浄土教の多くの類似点を意識してを書かれたのでしょう。福祉を学んでいた学友の中には、「倉田百三の『イエスとその弟子』によれば・・・・・」なんて、間違えて言っていた人もいた程です。
違いは、唯一の神を信じるか否かです。仏教徒の究極の目標は、私の理解では、「自ら仏になること」だと思います。ふつう、仏とはブッダの音訳、仏陀のことで覚者と解されます。死者という意味に誤用され、今は誤用の方が広く使われていますけれど。この「仏」をどう定義するかという問題はありますが、仏教には唯一の神とか唯一の仏といった概念はありません。
キリスト教徒の究極の目標は、一概に言えないのかもしれませんが、しいて言えば「神に栄光を帰すること」でしょうか。これは「神に仕えること」です。いと小さき者ひとり一人の中にキリストの姿を感じるがゆえに、キリスト教は、貧しい人・弱い人の側に立って働く人を輩出させました。キリストによる十字架の贖いという他力的な面を持ちながら自力的でもある、両面を有する宗教です。唯一の神に仕えるのであって、自分が神になるという発想はありません。
仏教もキリスト教も、どちらも、実際はともかく原則としては、万物を大切にします。利己を捨て利他に生きようとします。道徳を重んじ自らを律し、弱者に心を配ります。「人は信仰によって救われるのであって、行ないによるのではない」という考えもあります。
やはり、似てきます。
自然を支配下に置こうとする発想はキリスト教の理念から逸脱した近代思想であって、それをもってキリスト教そのものを非難すべきではありません。キリスト教の限界はむしろ、「イエス・キリストの十字架の贖い」を唯一の救いと考える教義の絶対性にある、と私は思っています。この限界については、またの機会にお話しできるかと思います。(伊藤)
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