苦難の意味、再び
(写真:苗の水やりを手伝う娘)
自分はこんなに幸せでいいのだろうか、という思いは、なぜこの世に苦しみがあるのか、なぜ苦しむ人がいるのか、という問いとつながっています。
困難・苦難の意味について考え、以前、こう書きました。
2006-03-13
困難といっても程度問題で、世の中には耐え難いと思える苦しみがあるのも事実です。なぜ、世の中に過酷な苦しみがあるのか、昔から問われてきました。
旧約の「ヨブ記」のような大昔の話でなくとも、たとえば原爆や空襲、旧満州からの逃避行、戦地での体験記といったものを読むと、なんでこんな苦しい目にあわないといけない人がいるのか、なんでこんな苦難がこの世に存在するのかと、考えてしまいます。
第二次世界大戦直後、19歳のキューブラー・ロスは、まだ異臭の残るナチスの強制収容所跡を訪れ、衝撃を受けたそうです。そして、それが、その後の仕事の出発点になったそうです。
たまたま部屋を片付けていたら出てきたフランクル著『夜と霧』の写真をめくりながら、私は今、苦難の意味について自問中です。
(全文 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2006/03/post_182d.html)
また、こんなことを書きました。
2006-03-30
前に書いた苦難の意味についての問いに、私ははっきり答えることはできませんが、妻とその話していたら、こう言われました。
「もしかすると、苦難ていうのは、本当はみんなで少しずつ負うはずの重荷なのに、ある人たちが集中して負ってしまっているんじゃないの? だから、自分はああならなくてよかったっていうんじゃなくて、あの人が私にかわって重荷を負った、っていうふうに考えないといけないんじゃないの」。
苦難は何も、戦争や病だけではありません。現代の日本でも、過酷な労働で過労死したり過労自殺に追い込まれたりする人がいます。子どもへの虐待、老いた親への虐待事件もおきています。親子の不和、夫婦の不和だって、大変な苦難といえるでしょう。
なぜある人に苦難が集中してしまうのか、やはり私にはわかりませんけれど、妻が言うように、自分はああじゃなくて良かったなんて思いたくないのです。
「本来みんなで少しずつ負うべき重荷を、ある人たちが集中して負ってしまっている」、もしかすると「あの人が私にかわって重荷を負ったのかもしれない」、そういう認識に立てば、困難にある人をさげすむことなく、もっと相互扶助的に、共生をめざす方向に、ものごとを考えていけるのではないでしょうか。
(全文 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2006/03/post_991c.html)
上記のブログ記事を書いてから5年が過ぎました。
5年経っても、私や妻の考えは変わりません。
補足すれば、フランクル著『夜と霧』の写真は原著にはなく、フランクル自身はナチスの悪行を告発したり糾弾したりする意図はなかったようです。フランクルは人間の可能性を信じ、希望を語りました。
フランクルとは時代も状況も違いますが、私も、人間の可能性を信じたいです。
(伊藤一滴)
いつも素敵なお話をありがとうございます。
それでも人生にイエスというのはなぜか。フランクルの導きは深く、一生かけてもその境地に達することはできないかもしれませんが、人生の航海に迷ったとき、はるか遠くに見える灯台のように心の奥深く輝き続けて助けてくれます。・・・・夜と霧の中で、私がもっとも好きなのは、もう会えない奥さんを思い、奥さんが自分自身の中に生きていることに希望を見出すくだりです。もう理屈など無く、そんな感覚に共感できることを幸せだと、ただただ涙した夜がたくさんありました。愛する人がいるということ、自分よりも大切だと思える人がいるということ、もうそのことだけで人間は十分だと思えます。そしてそれを希望として、生きていけます。
昨日も被災地に行ってきました。これからも何度も行くことになるでしょう。
行くたびに、人間の再生に向かう底力に驚かされます。
私も人間の可能性を信じたいです。
投稿: ぱく | 2011-05-21 11:08
間髪入れずにすみません。
ふと思い出したもので・・・
少し話はずれるのですが、茨木のり子さんの詩集「歳月」の中に歌われる夫婦像も、なんとなく、フランクル夫妻と重なり、誰かが自分の中で生き続けることってなんて素敵で哀しくて愛おしくてせつないことなのだろう・・・と。
そんなふうに愛することができる相手と出会えた人は幸せだし、そんなふうに人を愛せるように育てられた人は本当に幸せな人だと思うのです。
投稿: ぱく | 2011-05-23 18:51
コメントありがとうございます。励まされています。
「こんなに幸せに暮らしていていいのだろうか」と思う気持ちは、私自身にとっては、理屈で割り切れないものがあります。苦難の意味も、理屈では割り切れないです。
神谷美恵子は、たぐいまれな人だけれど、ふつうの主婦という一面も感じます。
お会いしたこともなく、著作や評伝でしか知りませんが、なんだか、とても身近な人のような感じがします。私にとって神谷美恵子は、近寄りがたい大先生というより、それこそ近所にいる「人のいい御婦人」のような感じです。
以前、「こんな有能な人に弁当作りをさせるなんて」と、誌上で神谷宣郎氏を非難していた人がいましたが、的外れな非難だと思いました。本人にしてみれば、夫や子どもの弁当を作る日常も生きがいの一つだったのでしょう。
フランクルについては、『夜と霧』(旧訳)しか読んだことがありませんが、自ら極限の体験をしながら人間の可能性を信じて希望を語った人として尊敬しますし、心の美しさを感じます。
相手を思いやり、愛し愛されるというのは最高だと思います。
(一滴)
投稿: 一滴 | 2011-05-24 14:41
読書傾向が似ている人というのはいるものだなぁ・・と不思議な感じがします。
高校生の頃、母の書棚から、その衝撃的なタイトルに惹かれて読んだのが「死ぬ瞬間」でした。そしてこのことが、今の職業に就くきっかけの一つになったのかもしれません。その後のロス博士の仕事もすばらしく、人への慈愛に満ちているのがひたひたと伝わってきます。自然体で人の死に向き合うことを教わったように思います。
人間存在の哀しさをどうしようもなく愛おしく感じられうようになったとでもいうのでしょうか。
いつもいつもシリアスになっているわけではありませんが、根底に悲哀や苦悩をもつからこそ、人は明るくユーモラスでいられるのではないかと思うこの頃です。
投稿: ぱく | 2011-06-03 08:45