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祈ることの意味・追悼

以前、「祈ることの意味」について、次のように書きました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2009/04/post-b511.html

「神や仏が存在する・しないにかかわらず祈ることには意味がある」という旨のことを書いたのですが、こういった分野に関心を持つ人があまりいないのか、特に反応もありませんでした。

祈りにはいろいろな要素があると思いますが、「讃えること、感謝すること」と「願い求めること」は、祈りの大きな要素だと思います。

未曾有の震災から7週間になろうとしています。
四十九日を前に、もう一つ、私が祈りの大切な要素だと思うことを挙げておきます。
それは、「死者を追悼すること」です。

哲学者の内山節(うちやま・たかし)氏も、祈りを呼びかけておられました。
もちろん、生き残った人たちの今後も大切ですが、復興への取り組みはまず、犠牲者の追悼から始めるべきだと私も思います。

宗教にはそれぞれの考えがあるでしょう。プロテスタントのように、死者のための祈りを否定してきた宗教もあります。それは、死者のための祈りを悪用し金儲けの手段の一つにしていたカトリック教会への抗議だったわけで、純粋に人の死を悼むことそれ自体であれば、プロテスタント教徒だって否定はしないでしょう。
自分は無宗教だから祈っても意味がない、ということにはなりません。「神や仏が存在する・しないにかかわらず祈ることには意味がある」という思いは、私が以前書いたとおりです。

死者を追悼することは、人の自然な感情だと思います。
仏教各派、神道、キリスト教各派、他の宗教、無宗教の人にも、立場の違いを超え、祈っていただきたいと思うのです。
(伊藤一滴)

コメント

とてもすてきなお話をありがとうございました。

「祈り」という言葉は「御利益(ごりやく)」と結びつけば、たちまち本願から離れてしまうし、「信仰」といえば対象(=唯一神)が存在しなければならないような感じがして、言葉の使い方がむずかしい・・・さらにいえば、言葉にしたとたんに祈りの本質から離れてしまうような、パラドックスのようなものを感じています。

ですが、いわゆる「祈り」という言葉で表わされる事柄の、非言語での本質については、大切にしたい感覚だと私も思っています。
つらいとき、思わず「お母さん」とさけぶように、窮地に立たされ無意識に「神様」とさけぶように、人の心にはもともと心身の感覚と分かち難い信仰心があるのだろうと思います。そんな思いを、大切に共有できる空気感がほしいですね。それだけで、光が見えてくるだろうと思うのですが。

失われた多くの人命、根こそぎにされた日常、その破壊の大きさに、どう語ればよいのか、正直、戸惑っています。
破壊のあまりの大きさを思うと、我が身は、実にちっぽけな存在に思えてきます。それでも、私は祈りたいのです。
これから進んでゆくであろう復興に先立ち、まず亡くなった人々を追悼したい、多くの人たちと祈りたいと思うのです。
どういう祈りであれ、祈りは自分の心の思いの表明だと、私は思っていますから、祈ったからには、その方向に向かって歩みたいと思うのです。
(伊藤一滴)

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