非神話化11・現在のことである十字架と復活
キリスト教信仰において、「イエスはキリストであること、キリストは十字架で殺されたこと、キリストは復活したこと」、これらを切り離すことはできない。
そして、イエス・キリストの十字架の死による救済を信じるのがキリスト教だ。
私はずっと「イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を贖(あがな)うためだった」と、人類の罪の贖いの死を信じるのがキリスト教の信仰だと思っていた。だからこのブログにもそう書いたことがある。だが、聖書の学びを続ける中で、罪の贖いという贖罪論は、新約聖書の一貫した思想とは言えないと思うようになった。
たしかに、福音書やパウロの書簡から、「十字架による罪の贖い」という論を導くことは可能である。だが、たとえばヘブル書は、十字架の意味を、民の罪に対する「なだめ」と論じ、贖罪を全面に出していない。ヘブル書は贖罪論に対する反論の書なのかもしれない。新約聖書の各文書の主張はそれぞれ違っていて、各著者の考え方は一致していない。
「キリストの十字架によって救われる」という見解と、
「キリストの十字架によって贖われる」という見解は、
似て非なる概念である。よく混同されるが、分けて考えた方がよい。
ちなみに、ブルトマンは、「十字架と復活」を救済の出来事としながら、罪のあがないという考えを神話論的解釈とし、つき従ってゆけないとまで言っている。
贖罪論はキリスト教の中に見られる見解ではあるが、贖罪論を信じなければキリスト教ではないとは言えない。
「十字架と復活」は救済の出来事だという。
しかし、実際にイエスに出会ったのはおよそ2千年前の人たちである。その後の人たちや今を生きる私たちは、どうすればイエスに出会えるのだろう。
ブルトマンは、「十字架につけられた甦りたもう者たるキリストは、宣教の言(ことば)においてわれわれに出会い、その他のいかなるところにおいても出会わない」と言い、また「宣教の言は、われわれがそれに対して認知証明の問(とい)を提出しうるようなものでなくして、われわれがそれを信ずることを欲するか、それとも欲しないかという問をわれわれに発しているところの神の言として、われわれに出会うのである」と言う(『新約聖書と神話論』)。
我々は、ただ宣教(ケリュグマ)の言葉だけからイエス・キリストに出会う、他からの出会いはない、となる。親や師や先輩や友人などに導かれたにしても、そこに宣教の言葉があったからだ、ということになる。導かれた人は、じかに聖書に記された宣教の言葉に触れ、イエス・キリストとの出会いを確かなものとした、ということになる。
まあ、中には、目の前にイエス様が現れたといった証言もあり、そうした証言はすべて嘘だなんて言えないけれど(※)、「宣教の言葉からイエス・キリストに出会う」のが、キリスト教の大原則だと私も思う。
認知証明など、しようがない。それが出来たら信仰とは言わない。すでに証明された科学の法則を信じても、それを信仰とは言わない。
信仰は、人間の認知証明を超えている。まさに「われわれがそれを信ずることを欲するか、それとも欲しないかという問をわれわれに発しているところの神の言(ことば)」なのだ。
ただし、理解は必要だ。人は、自分がまったく理解できないことを信じたりできない。
信仰は、科学的な証明が求められるものではないが、理解できる範囲での理解と、それを自分はこう信じるという説明は求められる。理解も説明もできないのに信じたら、それは狂信と同じだ。
信じるか信じないか、宣教の言葉に触れた人は決断を迫られる。だがそれは、原理主義やカルトのような狂信的・盲信的な「信仰」ではない。信じなければ地獄に行くと、脅され、脅し、日々恐れの中に生きるような「信仰」は新約聖書の使信とは相容れない。そのような「信仰」は人の精神を殺す。
新約聖書の宣教の使信を信じる信仰は、キリストと共に葬られよみがえり、新しいいのちに生きる信仰である(ロマ6:4)。
我々は、キリストと共に十字架につけられ共に復活した新しいいのちを生きている、ということになる。
十字架と復活は過去に終わった出来事ではない。過去から今に至り、今も我々と共にある出来事である。
十字架と復活はこの私と共にあり、これを私にとっての救済の出来事だと信じ、受け入れるのが信仰なのだ。2千年前の出来事が史実であったかどうかは問われない。
20世紀の科学の時代、論考に論考を重ね、このように考えればキリスト教信仰は成り立つし、キリスト教信仰を受け入れることができると論じたのが非神話化だったのだ。
※たとえば、マザー・テレサは、第二次大戦後、ダージリンに向かう小さな列車の中で、突然、十字架につけられたイエス・キリストが現れ、「私は渇く」とおっしゃったのを聞いたという。十字架のイエスの渇きにどう応えるのか、それが、その後のマザー・テレサの活動となっていった。
(完)
(伊藤一滴)
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