非神話化10・洗礼
ブルトマンは、我々が洗礼を受けるのはイエス・キリストの十字架の死への参与であり、復活への参与だと言う。パウロの見解から導かれる主張である。「 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ロマ6:4)
洗礼を受けた者の生活は、イエス・キリストの復活に参与し新しいいのちに生きる喜びの生活となる。
では、いつも疲れているクリスチャン、教会に行くとエネルギーを吸い取られるみたいになってますます疲れるクリスチャンが存在することをどう説明すればいいのだろう。
ブルトマンがそう言っているわけではないが、「エネルギーを吸い取られるだけの教会にイエス様はいない」と考えるべきだろう。信者のエネルギーを吸い取り金銭も吸い取る「教会」が世にはある。そうやって信者の人生を吸い取ってしまう。そうした「教会」が「正しい聖書信仰」だの「福音的な教会」だの「福音派」だのと称していたりする。誠実な福音派の信仰を持って誠実に生きているクリスチャンにとって実に迷惑な話である。
意義を感じないことをすれば、重い疲れだけが残る。
それが大変なことであっても、意義を感じるのなら、心に重い疲れが残ったりはしない。
重い疲れだけが残るような場からは、離れた方がよい。それが学校であれ、職場であれ、また教会であれ。
そこから離れて、別の居場所を探した方がよい。
洗礼に関して思うのだが、多くの教派のそれぞれの主張の中で、有効な洗礼とは何なのだろうか?
他教派の洗礼は?、幼児洗礼は?、原理主義者の洗礼は?、極端な教派の洗礼は?、異端的な団体の洗礼は?
どこまで有効な洗礼なのだろう。
場合によっては洗礼を受け直す必要があるのだろうか。複数回の洗礼を受けてもよいのだろうか。
違う話だと言われそうだが、過去に再洗礼派は過酷な弾圧を受けている。拷問されて処刑された人もいる。プロテスタントも再洗礼派を異端として弾圧している。
今日なお洗礼については教派間による見解の相違が見られるが、多くの教会で共通するのは次のような見解である。
1.父と子と聖霊の御名によって水で洗礼を授けること。
2.洗礼を授ける者が、父と子と聖霊の御名による洗礼を授ける意図を持って行なうこと。(これを満たせば授ける者が信者かどうか問われないこともある)
教派によっては、「信仰を自覚し告白した者だけが洗礼を受けることができる」とする見解もある。この立場だと、幼児洗礼は行なわれない。
信仰の自覚と告白を条件とするのは、一見もっともな主張であるけれど、では知的障害者は洗礼を受けられないのか、受けられるならどのレベルの障害までなのか、といった問題も生じる。
福音書のイエスは幼児(おさなご)を受け入れているが、イエスが受け入れた幼児に信仰の自覚や告白があったのか、という問いも出てくる。
また、無教会のように、洗礼、聖餐といった聖礼典(サクラメント)を行なわない立場はどうなるのか?
形としての聖礼典は行なわないが、精神的な聖礼典があるということになるのだろうか。
ちなみに無教会の創始者内村鑑三自身は洗礼を受けている。
洗礼は、イエス・キリストの十字架の死への参与であり、復活への参与だというのは、神学的にはそうなのだろが、教派間の見解の相違をどう考えるべきかという課題は残る。
(続く)
(伊藤一滴)
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