聖母マリアを崇敬する「聖書的根拠」(再掲)
「神父の放言」というおもしろいブログがあった。
書いていたのはたぶん、本当の神父さんだと思う。もし神父でない人が神父のふりをしていたのなら、神父になりすませるくらい、かなり学んだ人だったのだろう。
読んでいて、「なるほど、カトリックはこう考えるのか」と、とても参考になっていた。
久しぶりに「神父の放言」を見ようとしたら全部消えていた。理由はわからない。
コピーしておけばよかった。残念だ。
かつて、この「神父の放言」に、聖母マリアを崇敬することの「聖書的根拠」も載っていた。
こういう考え方もあるのかと思った。
もっとはやく、紹介しておけばよかった。
(一滴がいつも言うように、聖書の言葉は理屈のつけようで何とでもなる。聖書を引用して、まったく正反対の主張ができる箇所も多い。だから、対立する教派がそれぞれに「聖書的に正しいのはこうです」と相容れないことを言い合ってきた。)
放言神父がおっしゃっていた聖母マリア崇敬の「聖書的根拠」について、思い出せることを記憶で書いてみる。
ヨハネ福音書に、十字架につけられたイエスが死を前に言った言葉が記されている。
「19:26イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 19:27それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。」(ヨハネによる福音書 口語訳)
イエスは母マリアに、愛弟子のことを、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」と言っている。
愛弟子にはマリアのことを、「ごらんなさい。これはあなたの母です」と言っている。
もし、自分の死後に母のことを頼みたいなら、弟子に「私の母をよろしく頼む」と言うのが自然だろう。
イエスは、「よろしく頼む」ではなく、「これはあなたの母です」と言っている。
ヨハネと思われるこの愛弟子だけが特別だというのではない。マリアと愛弟子には血縁関係はないだろうに、イエスは「子です」「母です」と、はっきり言ったのだ。
イエスを信じる者すべてにとって、マリアは母であり、マリアから見れば、すべて子なのだ、ということだろう。
クリスチャンホームの人なら自分の母親の信仰に敬意を持ち、母親に、これこれのことで祈ってほしいと頼むのは自然なことだ。
信じる者すべてにとっての母であるマリアに、祈ってくださいとお願いするのは自然なことであり、聖書解釈としても成り立つ。
「カトリックは聖書的根拠のないことを言っているから間違っている」と非難する人たちがいるが、このように理屈をつければ、マリアへの祈りには聖書的根拠がある、ということになる。
なお、これは一滴の補足だが、カトリック教会や東方教会で行なわれる「マリアへの祈り」というのは「共に祈ってください」というお願いであり、神に対する祈りとは違う。
それと、カトリック教会のマリアの像は象徴的なものであって、像に霊が宿っているといったものではないという。
マリア像に向かって祈る(正確には、マリアに対して「神に祈ってください」とお願いする)のを偶像崇拝だと言うのなら、聖書を前に祈るのも聖書への偶像崇拝、教会の屋根に十字架を掲げるのも十字架への偶像崇拝になるのではないか。
それ以上に、自分たちの先入観に合うように聖書の言葉を改変したり独自に解釈したりする方がよっぽど偶像作り・偶像崇拝だろう。
見方を変えれば、何が偶像崇拝なのか、違って見えてくる。
(伊藤一滴)
付記
別に、カトリックに媚びているのではありません。カトリック信者を名のる人たちの中にも、極端な原理主義者がいるようです。
参照:カトリック信者と称する原理主義者たち
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/06/post-c3a6.html
私は、一般の福音派も含めて、どのキリスト教の教派の人たちにも敬意を持っています。(ただし原理主義者やカルトは別です。彼らには、目を覚ましてほしいと思っています。憎んでいるのではなくて。)
2022-07-07 掲載、そのまま再掲
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