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あれかこれかの二分法思考は危険

これまでいろいろなクリスチャンと話をして感じたことの一つは、クリスチャンの中に、あれかこれかの二分法思考の人がかなりいる、ということです。

たしかに、聖書そのものに、あれかこれかのような発想もあります。光と闇、信仰と不信仰、救いと滅び、みたいな発想です。でも、聖書のすべてが二分法ではありませんし、二分法はこの世界のすべてに当てはまるわけでもありません。


私は、何でもかんでも二分法を当てはめるような考え方では駄目なんだとずっと言ってきました。
たとえば、こう書きました。

引用開始

原理主義やカルトも「福音派」と自称しますが、彼らの宗教は、最初から答えがあって、個人の判断を許しません。そして、何でもそれが善なのか悪なのか、価値があるのか無価値なのか、救いなのか滅びなのかみたいに、2つに分けようとする二元論、二分法なのです。あれかこれかと2つに分けて、自分たちは正しい側にいると思い込むんです。
この世界は白か黒かの碁石が置かれた碁盤じゃありません。碁石なら、白でなければ黒、黒でなければ白ですが、現実の世界には判別が難しいものや中間的なものがたくさんあるんです。どちらか2つに1つというのはわかりやすいんですけれど、そのわかりやすさで、2つに分けられないものを無理に分けてしまってはいけないんです。

そうした二元論の思考になってしまうと、何でも正か誤かに分けようとして、自分は正の側、救いの側だと思って、この正しい教えを伝道しないといけないという使命感に燃えるんです。でも、それって、単に、特定教派の特定牧師から植え付けられたイデオロギーですから、そこに客観性も普遍性もないんです。
真面目な人がからめとられてしまって、指摘しても、気づきません。自分の信仰を否定されたと思うのか、火がついたみたいになって怒るだけです。私は、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
マインドコントロールされ、それが進んでしまうと、説得は難しいようです。

「救い」か「滅び」か2つに1つみたいな、二分法の思考から離れると、楽なのに。
この教会から離れたら、滅びる、地獄に行く、永遠に焼かれる、みたいに考えていたら、恐怖による縛りで離れられなくなって、心の平安なんてないです。

心に平安のない信仰って、イエスが教えた信仰ですか? あるべき信仰ですか?

キリスト教の否定ではありません。カルト思考では駄目なんです。自称「福音派」の原理主義やカルトのイデオロギーに支配される生き方では、自分の人生を生きることができなくなるのです。

引用終了
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2022/10/50-479c.html


クリスチャンの中に、「信者か信者でないのか」と、人の信仰の有無をすごく気にする人がいます。どうもそういうクリスチャンは、頭の中で、全人類を「クリスチャン」と「非クリスチャン」の2種類に分けて、それ以外の人間はいないと思っているみたいです。
そして、クリスチャンだけが救われ非クリスチャンは滅ぶ、と考えているようなのです。
そんなふうに、すべての人をあれかこれかの2つに分けられるのでしょうか。二分法思考だと、野中花子氏のような方が現実におられることの説明が難しくなります。

「野中さんはサタンに負けた背教者だ。彼女は浅い土に蒔かれた種だった。」
「彼女は最初から救いに予定されていなかった。だから長く教会生活を続けても本当には救われていなかった。」

そうした声も聞くんですが、「救われていない」のはどちらなのかを問いたいです。野中さんですか? 彼女を非難する側ですか?

もしイエスの教えから人類を2つに分けるなら、その人が「クリスチャン」として生きているのか「非クリスチャン」として生きているのかではなく、「天の父のみこころにかなう者」か「みこころに反する者」か、となるのではありませんか。しかも、中間的な状態だってかなりあるでしょう。

私は、どうも、非クリスチャンに「天の父のみこころにかなう者」が多数いて、クリスチャンの中に「みこころに反する者」が多数いるように思えてなりません。


マタイ福音書にこうあります。

7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(新改訳)


その人が、見える形で、キリスト教の信者なのか、信者でないのか、それが、そんなに大事なことなのでしょうか。(まあ、教会が収入を得て運営を続けるためには大事でしょうけれど。)

私は、「天の父のみこころにかなう」ことの方が、ずっと大事だと思っています。そして、それは、「聖書にこう書いてあるからこうだ」とか「書いてあることをすべて文字通り信じて守らないといけない」みたいな、現代版の律法主義の実践ではないと考えています。


以前私は、こうも書きました。

引用開始

今も、世のキリスト信者の中には、誰それが「信者」か「信者でない」かを区別したがる人がいます。しかし、それぞれ別な宗教ではないかと思えるほどキリスト教諸派には幅があるし、キリスト教を信じると言っても、いつの時代のどの派のキリスト教をどのように信じるのか、その立場は数えきれないように思えます。ですから、その人が「信者」か「信者でない」か、他者がどうこう言えることではないし、場合によっては、その人自身もはっきりと答えられないかもしれません。

特定のキリスト教の立場から見て「信者」か「信者でない」かなど、さほど重要なことでないように思えます。人生は決断の連続ですが、ひとたび聖書の教えに触れた人間が、決断の状況に立ったとき、どう決断するのか、それが問われるのではないかと思います。

引用終了
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/04/post-9c77.html

(伊藤一滴)

正しいキリスト教(再掲)

キリスト教には多くの教派がありますが、どの教派の教えが正しいのでしょうか。あるいは、正しくないのでしょうか。
いろんな人がいろんなことを言いますが、何が「正しいキリスト教」で、何を間違いと言うのか、答えは出ています。

「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言い、自分(たち)が容認できないくらい見解が違う場合には「異端派」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。
ですから、世には無数の「正しいキリスト教」があります。

「正しい聖書解釈」も同じことです。
いろんな人がいろんなことを言いますが、これも答えは出ています。

「自分が属する教派の解釈、および、それを受け入れた自分の見解」
これを正しい聖書解釈と言います。
これに反する主張を「間違った聖書解釈」と言い、自分(たち)が容認できないくらい見解が違う場合には「異端派の解釈」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。
ですから、世には無数の「正しい聖書解釈」があります。

キリスト教は宗教ですから、その主張に科学的な証明が求められるわけではありませんが、少なくとも、理屈の通った主張をする必要はあるでしょう。

矛盾だらけの主張や二重基準の主張をする「教会」や「キリスト教団体」には近寄らないほうがいいでしょう。
他宗教や他教派などの異なる立場の人たちに、罵詈雑言を浴びせて自分たちを正当化する「正しいキリスト教」も警戒したほうがいいでしょう。

良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。その「教会」や「キリスト教団体」がどんな実を結んでいるのか、広い視野でよく見てください。

(伊藤一滴)

2020-09-01記、再掲

『聖書はもういらない』への富田正樹氏の書評に思う

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野原花子氏の前作『聖書はもういらない』の書評はあまりないようですが、牧師の富田正樹氏が、2021年3月13日に「気の毒としか言いようがないが、キリスト教会は警告の書として厳粛に受け止めなくてはいけない」として、書評を書いておられます。

https://ichurch.me/2021/2021/03/13/no-need-bible/

続編『私はもう祈らない』で、「教会や教派の選択を誤ったという問題ではない」と言う野中花子氏は、この書評を読んでおられないのでしょうか。

富田氏の書評を引用して紹介します。


引用開始

これは学問的にキリスト教の教義や歴史上の問題点を検証した研究書ではない。キリスト教会にマインドコントロールされ、人生をボロボロにされた被害を縷々綴った苦難の記録である。

宗教に心を奪われてしまった人が、最悪の場合どのような末路を辿るかを赤裸々に告白した警告の書としての存在意義は大きい。著者の味わわされた苦痛を思うと誠にいたたまれない。

おそらく文面から伺えるのは、著者が取り憑かれてしまっていたのは、キリスト教の中でも「福音派」と呼ばれるタイプの教会だろう。

このタイプの教会は、聖書の字面を「神ご自身の言葉」で一字一句絶対的に正しいと思い込み(その割には自分たちの解釈に都合の良い所しか引用しない)、自然な人間的感情さえも「この世的」と侮蔑し、わずかな疑問を抱くことさえ「不信仰だ」「サタンの誘惑だ」と徹底的に叩く。しかも彼らは悪意からそうするのではなく、心底善意からそうする。神から離れれば、死後、地獄の業火が待っていると信じているからである。

このような教会に深く関わってしまったのなら、著者によるキリスト教の害悪に対する訴えも「もっともだ」と頷ける。

ただ、キリスト教には「福音派」だけではなく、様々な教派、学派がある。聖書を字面だけ取り上げて絶対視したりせず、古代の文献のひとつとして批判的に研究する神学もあるし、神の存在さえも決して自明のこととはしない思索もある。

引用終了


私、一滴も、「聖書を字面(じづら)だけ取り上げて絶対視」なんてしないし、聖書は「古代の文献のひとつとして批判的に研究する」ものだと思うし、「神の存在さえも決して自明のこととはしない」立場です。

でも、私は頭から神を否定しているのではありません。
神を信じて誠実に生きた人たちの生き方に、神の働きを感じていますから。

福音派の名誉のために言っておきますが、すべての福音派が上記のような人たちではありません。善良で穏健で視野も広く、信頼できるクリスチャンだって多数います。ただし、福音派を称する人たちの中に、原理主義に近い人や原理主義者そのものもいるのです。一部はカルトです。マインドコントロールの手法を使っています。注意が必要です。その比率がどれくらいなのか、私にはわかりません。
原理主義者たちは、原理主義者(根本主義者、ファンダメンタリスト)と呼ばれるのをひどく嫌い、「福音派」と称するのですが、そうした自称「福音派」の原理主義者と一般の福音派とは分けて考えた方がいいと思います。


さらに、富田牧師はこうおっしゃいます。

引用開始

そもそも、キリスト(救い主)とされたナザレのイエスでさえ、死に際には「神さま、神さま、どうして私を見捨てたのですか!」と泣き叫びながら死んだと伝えられている。「神が何を考えておられるのかわからない」「神がおられるなら、なぜ私がこんな目に遭うのですか」というこの嘆きは、すべての人間の嘆きでもある。その嘆きに徹底的に寄り添ってゆくのもまたキリスト教なのだ。

であるから、この本を読んだ人が、ここに描かれた福音派の実態を見て、「ああキリスト教ってそういうものなのか」と思ってしまうとすればとても残念だ。

この方がもう少し別の教派、別の聖書の読み方をする教会なり牧師、信徒と出会えていたら、キリスト教にも色々あることがわかり、あくまで可能性に過ぎないが、ひょっとしたら救われたかも知れない。そこが悔やまれる。

一方、この本には、キリスト教を批判し続ける文面の合間に、聖書を生み出したイスラエルの地の、数々の名所の写真が散りばめられている。そこにはオマージュ、或いはリスペクトに近い感情さえ感じられる。ここに、著者の心に残る、なにか聖なるもの、美しいもの、真実なものを、今でも求めたい思いを感じ取ることができるように思うのは私だけだろうか。

「聖書はもういらない」。
それでもいい。聖書とは別のものでいいから、この方がこれからでも、何かちゃんとした素敵なものを見つけられることを願ってやまない。

引用終了


富田氏は「「聖書はもういらない」。/それでもいい。」とおっしゃっています。私もそう思います。(人類にとっていらないのではなく、野中花子氏の今の状況においてはいらない、という意味で。)
富田氏の言葉に野中氏への優しいまなざしを感じます。でも、そんな富田氏でさえ、
「この方がもう少し別の教派、別の聖書の読み方をする教会なり牧師、信徒と出会えていたら、キリスト教にも色々あることがわかり、あくまで可能性に過ぎないが、ひょっとしたら救われたかも知れない。そこが悔やまれる。」
と言うのですから、どこまでもキリスト教的な発想・視点から見てしまう限界も感じます。牧師という立場上、仕方がないのでしょうけれど。

野中花子氏は、「聖書やキリスト教から脱出することで救われた」のです。
もう一度いいます。

「聖書やキリスト教から脱出することで救われた」のです。

もし彼女が、別の教派、別の聖書の読み方をする教会なり牧師、信徒と出会えていたら、かなり違う展開になっていたことでしょう。でも、それを「救われた」って言うんでしょうか。

富田氏が、単に、「人生をボロボロにされずに済んだ」という意味で「救われた」という言葉を使っておられるのなら、別に目くじらを立てるような表現ではないのですが、この「救われた」というのは、キリスト教界では、ちょっと引っかかる表現なのです。それは、「キリスト教に入信した」「キリスト教の信仰を持った」という意味で「救われた」と言う人たちがいるからです。この意味だと、耳障りな言葉です。「非クリスチャンは救われていない」というクリスチャンたちの上から目線の、思い上がり、高慢さを感じる言葉です。まして、原理主義やカルトのマインドコントロール下にある状態を「救われた」などど言うのを聞くと、気分が悪くなります。
ある種のクリスチャンたちが好んで使う意味での「救われた」という言葉は、「未信者」という言葉と並ぶ、ひじょうに不愉快なクリスチャン用語です。
「クリスチャンであれ非クリスチャンであれ、良心に従って生きようとする人は皆、救いの内にある」というのが私の考えですから。


『聖書はもういらない』に載っているイスラエル各地の写真を見ながら、私も思いました。野中花子氏は、自分がいた教会から教えられたキリストではなく、歴史上のイエスを求めているのかもしれないと。

(伊藤一滴)

信じ方の問題、そして祈り(野中花子著『私はもう祈らない』を読んで)

聖書を信じて生きてきたせいで生活が破綻してしまったという野中花子氏ですが、彼女の人格に問題があるとか、個人的な問題だとか、私は思いません。福音派と名乗る人たちの中に見られる「原理主義的価値観」に、仕事その他の重圧が加わった問題ではないか思います。
彼女はまさに宗教二世です。幼い頃から母親に植え付けられた原理主義的な価値観を持っていたのです。この母親も娘の野中氏も真面目な人で、原理主義的な価値観やその価値観による行動にも、とても真面目だったのでしょう。
残念なことですが、熱心なクリスチャンと言われる人の中に、それは依存症ではないかと思える人がいます。まるでアルコール依存症のような、神様依存症・聖書依存症・教会依存症・牧師依存症・・・になってしまっているのです。牧師の言葉はもちろん人間の言葉ですが、たとえ、神様、聖書、教会の教えといったものが正しいとしても、それはその人が認識できる範囲内でしか受け取りようがないのです。神様は絶対で、全能で、無誤無謬だとしても、それを知ろうとする人間の側の理解力は絶対ではないし、全能でも無誤無謬でもないのです。神様の御旨(みむね)にしても、聖書のメッセージにしても、ある程度まで行けばあとは人間の解釈であり想像です。受け取り方は、ずれていたり、かなり外れていたりしているかもしれません。人間の考えや人間が想像で作り出したものは絶対にはなりません。そういったものに依存してはいけないのです。それは一種の偶像崇拝です。イエス自身は、何かに依存して生きなさいなんて教えていません。
野中氏は、自分は依存的な信仰ではなかったと言うのですが、聖書の言葉を生活マニュアルのように使っていたわけで、やはり聖書に依存していたのではないかと思います。もっとはっきり言えば、原理主義的な聖書解釈に依存し、また、支配されていたのではないか、と思います。

イエスの教えは、律法主義からの解放の教えです。「律法解釈」は人間が作りだしたものです。人間を縛り束縛してしまう律法主義を、イエスは否定したんです。イエスの主張とパウロの主張はちょっと違うんですが、パウロはパウロで律法主義を否定しました。彼は「文字は殺し霊は生かす」とまで言っています(2コリント3:6)。新約の、どの文書だって、律法主義の教えではありません。
だのに、どうして、聖書の言葉を引用し、人間を縛り束縛してしまう現代の律法主義にしてしまうのでしょう。そういう現代の律法主義者たち(=現代のファリサイ派たち)が、自分たちのことを「私たちは正しい聖書信仰に立つ正統的プロテスタントです」とか「福音主義です」とか「福音的な教会です」とか言ってるんです! (逆は言えません。自分たちを「聖書信仰」と言う人たちの皆が律法主義・ファリサイ主義ではありませんから。)
若い頃の私は、「救われないのは自称「福音派」だけ」と思っていました。


クリスチャンたちの中に、「祈り」についての勘違いもみられます。自分本位の祈りや、現世の御利益(ごりやく)を求める祈りもかなりあるのです。特に、自称「福音派」の人たちの中に。
「私たちの日用のパンを今日も与えてください」だって、現世の御利益と言われそうですが、「私たちの」ですよ、「私の」や「我が家の」じゃありません。
私は、祈りは自分の思いを言葉にすることで自分を客観化する行為だと思っています。つまり、自分は何に感謝し、何を讃え、何を願い、何に向かって進んで行こうとしているのか、自分の本当の願いはどこにあるのか、それを言葉にする行為だと思っているのです。
聖書が書かれた時代、人々は神話的な世界観の中に生きていました。当然、聖書は、神話的な世界観で書かれています。そういう時代でしたから、超自然的な話がたくさん出てきます。それはその時代の表現です。
私は、超自然的な現象をすべて否定するのではありませんが、大原則として、この世界で起こる現象は、自然の法則の範囲内の現象だと思っています。福音書が執筆された時代の人ならば、「人にはできないことも神にはできる」(ルカ18:27)と思ったのでしょうが、実際は、ほとんどのことは、「人にできないことは神にもできない」のです。
もう、超自然的な働きを願うのはやめて、「人にできないことは神にもできないのが原則」と考えたほうがいいと思います。それは、神の否定ではありません。神の働きは人の手を通してなされる、と言うこともできるのです。例をあげれば、私は、殉教的な死を遂げた中村哲先生の活動に、中村先生を動かした神の働きを感じています。その普遍的な理念は、先生の没後も残り、そういう意味で、中村哲先生は永遠の命の人となったと言えるのです。死後の世界が、あっても、なくても。 
聖書学者の田川建三先生は「存在しない神に祈る」とまでおっしゃっていました。神が存在してもしなくとも、祈ることには意味があるというのです(田川建三著『思想的行動への接近』他)。人は、自分が祈る方向に向かって進もうとします。自分はこうありたいとか、世の中はこうあってほしいとか、祈る方向に、人は、現実的に動き出すんです。だから、たとえ神が存在しなくとも祈ることには意味がある、ということになるんです。

死後の世界があってもなくても、神様がいてもいなくても、私は、祈り続けます。

前にも引用しましたが、フランシスコ・ザビエルに帰せられる祈りを再びここに記します。


【十字架上のキリストへの祈り】
主よ 私があなたを愛するのはあなたが天国を約束されたからではありません。あなたにそむかないのは地獄が恐ろしいからではありません。
主よ 私をひきつけるのはあなたご自身です。私の心を揺り動かすのは十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。あなたの傷ついたお体です。あなたの受けられた辱めと死です。
そうです。主よ。あなたの愛が私を揺り動かすのです。ですから たとえ天国がなくても主よ 私はあなたを愛します。たとえ地獄がなくても私はあなたを怖れます。
あなたが何もくださらなくても私はあなたを愛します。望みが何も叶わなくても私の愛は変わることはありません。
(フランシスコ・ザビエル)

これも前に書いたことですが、繰り返します。
天国や地獄があってもなくても、イエス・キリストの愛を感じ、イエス・キリストを愛する。報酬など何も望んでいない、ただキリストを愛する。これこそが信仰の精髄でしょう。
「死んでから天国に行きたいのです。地獄に行きたくありません。だからイエス様を信じます」みたいなクリスチャンが、今も、何と多いことか。それって、「天国に行きたいのです。地獄には行きたくありません。だから免罪符を買います」というのと、何が違うのですか?
(伊藤一滴)

追記:今日(11月18日)知ったのですが、『私はもう祈らない』は、オンデマンド版の紙の本もあるそうです。アマゾンで見たら、一時的な品切れになっていました。

野中花子著『私はもう祈らない』を読む

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野中花子著『私はもう祈らない』という電子版の「本」が出ており、私も読みました。この「本」は、同著『聖書はもういらない』の続編です。
(現在のところ紙の本がなく、電子版だけです。読みにくいです。)

前作『聖書はもういらない』について思うことをこれまで何度も書きました。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/03/post-74d0.html
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/03/post-3af9.html
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/03/post-66aa.html
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/04/post-2913.html
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/07/post-bd0e.html


『私はもう祈らない』(kindle版)を読み、これにもいろいろ思うことがありますが、今日は一点だけ指摘します。
それは、著者が大変な目にあった理由の一つは、「教会や教派の選択を誤ったという問題」だ、ということです。


本人は、
「教会や教派の選択を誤ったという問題ではない」
と書いています。

そう言いながら、その章でこうも言うんです。

「福音派は聖書中心主義ですから、神の言葉である聖書に従って信仰生活をしようとします。聖書に従って信仰生活をしようとする福音派に問題があるとしたら、それは聖書そのものに矛盾や問題があると考えるべきではないでしょうか。」(34ページ)

違います。

すべての教派が、聖書を文字通り信じる立場ではないし、聖書の個々の記述を信仰生活のマニュアルのように使っているわけでもありません。
「聖書に従って信仰生活をしようとする福音派」の問題を、聖書そのものの矛盾や問題とするのは、筋の違う話です。それは「聖書の使い方の誤り」だと思います。

それこそ、「私は自動車を運転し、事故でひどい怪我をしました。それは自動車そのものに矛盾や問題があると考えるべきではないでしょうか」みたいな話です。

ある指導者から「自動車は神様から与えられた誤りのない乗り物ですから、疑わず、ただ信じて乗るなら事故など起きません」みたいに教えられていたらどうなります?
10年、20年と大事故がなかったのはただの偶然でしょう。

別の団体の指導者が、「自動車は人間が作った機械です。操作を誤れば大事故になります。常に、注意を怠らずに使うべきです」と教えていたらどうでしょう。

どっちも自動車の指導者なのだから同じですとは言えません。

キリスト教だって、教派、教会、指導者によって、言うことがかなり違います。

著者は、まさに「教会や教派の選択を誤った」ため大変な目にあったのに、その認識がないのです。
著者にとっては保守的な「福音派」(原理主義的な教派)の考え方がキリスト教の標準であり、エキュメニズム派とされるカトリックや無教会にまで、自分の標準を当てはめて、「少し違いがあってもほぼ同じ」と考えてしまっているのでしょう。実際は、別の宗教ではないかと思えるくらい違っているのに!

例外もありますが、これまで、多くの場合、福音派とエキュメニズム派は似ていませんでした。1970年代、80年代には、かなり対立もありました。
でも、ここ20数年を振り返れば、かなり歩み寄りも見られます。(全員ではありませんが。)

福音派の中にもエキュメニズムを求める声があります。対話路線の人たちがいます。今、福音派は変化の途上ではないかと思います。主流派プロテスタントやカトリックとの関係が今後どうなるのか、注視したいと思います。カトリックだって、第二バチカン公会議で劇的に変わり、プロテスタントとも他宗教とも積極的に対話するようになったのですから。
以前から福音派の一部でカール・バルトが人気でしたが、近年はN・T・ライト(英国国教会)の著書も人気だと聞いています。福音派の変化、エキュメニズムへの接近ではないかと思います。

もし、野中花子氏が最初に導かれたのが、主流派のプロテスタント、原理主義的でない福音派、無教会、カトリック、正教会などなら、事態はかなり違っていたのではないかと思います。

(伊藤一滴)

『エヴァンジェリカルズ』(キリスト教の「福音派」と「原理主義者」の違い)(再掲)

キリスト教の「福音派」と「原理主義」の違いについて、自分なりに思うことをこれまでも書いてきました。(たとえば、http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/11/post-095f.html)

「日本には、キリスト教原理主義者なんていない」と断言する「クリスチャン」がいますが、そういうことを言う人自身、原理主義(根本主義、ファンダメンタリズム)の影響下にあるのか、よほど不勉強か、どちらかでしょう。

日本において福音派と名乗る人の中には、穏健で良心的な人たちが多数おられ、私も親切にしていただいてきました。ただ、中には、原理主義あるいはカルトに近い自称「福音派」もいますから、注意が必要です。(ネット上で非難されている「福音派」の多くは、後者のことだと思います。)

私はふだん山里暮らしをしていますが、所用で山形市内に行ったときに、ちょっと本屋に寄ったら、たまたまマーク・R・アムスタッツ著『エヴァンジェリカルズ』(加藤万里子訳)という本を見つけ、買ってきました。この本に、原理主義者と福音派の違いがずばり書いてあり、私も納得できる点が多いので、引用して紹介します。

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引用開始(『エヴァンジェリカルズ』41頁~)

1聖書の解釈

 原理主義者は、福音派よりも聖書を文字通りに解釈する直解主義を強調する傾向がある。

2文化

 原理主義者は世俗文化の価値に懐疑的だが、福音派はあらゆる社会と文化団体の中で活動し協力することを「一般恩寵」[すべての人に与えられる神の恵み]だと見なしている。

3社会貢献

 原理主義者が社会貢献や経済活動を重要ではないと考える傾向があるのに対し、福音派はそれらの活動を福音の中心と見なしている。

4分離主義

(略)原理主義者は「真の信仰は、聖書に基づく宗教に啓示された使命と権限をまっとうするために社会からの隔離を求めている」と考えている。そのため、個人の敬虔さを優先し、世俗社会との関わりを最小限にとどめているが、福音派は社会の改革と変容には文化、社会、政治への参加が不可欠だと信じている。

5リベラル派との対話

 原理主義者は、リベラル派のキリスト教徒と議論しても得るものなどほとんどない、と信じて議論を避けてきた。一方、福音派はリベラル派から学び、できれば彼らに影響を与えたいと強く望んでいる。

6信仰の本質

 原理主義者も福音派も神の恩寵による救済を重視しているが、原理主義者は福音派よりもはるかに規則や禁止事項に重きを置く傾向がある。

7対立

 どちらの教会にも意見の不一致や不和はあるが、福音派よりも原理主義者のほうが深刻である。福音派は原理主義者よりも本質的要素とそうでないものの違いを重視するため、メインライン・プロテスタント(プロテスタント主流派のこと、引用者)の教派にとどまるなどの困難な状況に進んで適応しようとする。

引用終了

以下は私なりの解説

1聖書の解釈について:つまり原理主義者は、聖書66巻だけを無誤無謬の絶対的な正典とし、逐語霊感説に近い考えに立つのです(福音派の中にもそういう人がいますが、原理主義者ほど硬直した考えではないようです)。でも、もし聖書66巻だけが無誤無謬で絶対的な唯一の信仰の論拠なら、新約聖書が成立する前の信仰って何だろう、とか、聖書の翻訳がなかった時代の信仰とは、誤訳の多い聖書しか手に入らなかった時代の信仰とは、意図的に改竄された聖書しか知らない人の信仰とは、写本間にみられる多くの相違(意味が違ってしまう重大な相違もある)とは、いったい何だろうと考えてしまいます。

2文化について:原理主義者はこの地上の文化一般を、人の営み、肉の営みと見なして下に見ているようです。彼らにとっては彼らの解釈による神の営み・霊の営みが大事だから、地上の文化なんてどうでもいいのでしょう。そういう考えなので、社会や政治に無関心なんです。ただし、進化論否定と妊娠中絶反対だけは熱心で、この2点に関しては、社会や政治に圧力をかけてくることもあります。(私も安易な中絶には反対ですが、それならそれで言いようがあるだろうし、誰かを責めたくはないです。)

3社会貢献について:原理主義者の多くは社会や政治に無関心なだけでなく、社会貢献や経済活動に対しても無関心です。一方福音派は、福祉や医療やボランティア活動、事業経営などに取り組んでいます。ただし、そういった活動が福音派の信者にとって福音の中心とまで言い切れるのかどうかは疑問ですが・・・・。

4分離主義:原理主義者は、自分たちは真理の内にあるから、誤謬に満ちた外の社会とはあまり関わりたくないのです。ただし「伝道」のためや「誤謬」を正すためには、ある程度(時には熱心に)関わってきます(迷惑な話です)。原理主義者はこの地上の社会の営みにあまり関心がなく、「この世」を軽視しているので、「この世」の問題に真剣に取り組んでいる人たちを、どこか見下し、馬鹿にしているように感じられます。彼らにとって、自分たちのグループの外はサタンの支配下なのです。サタンから学ぶことなどないし、サタンの支配下にある人たちとの協力もないのです。つまずきになったりサタンが入り込んだりするといけないから他者との対話もないし、対話がないから相手をひどく誤解して、誤解に基づく非難を投げつけてきて、それに答えても聞く耳を持ちません。「福音派」と称する人が、ひどく排他的で不寛容であったり、社会の諸問題への取り組みを鼻で笑うような態度であれば、その人は「福音派」と自称する原理主義者でしょう。それに対し、本当の福音派は、この世界に平和が実現すること、全世界の人々が貧困や飢餓や弾圧から解き放たれることを真剣に願っています。そうした願いで、社会の改革と変容には文化、社会、政治への参加が不可欠だと信じ、祈りながら活動しているのです。

5リベラル派との対話:福音派は、リベラル派(メインラインのプロテスタント、主流派、エキュメニズム派とも言う)ともカトリックとも対話のできる人たちですが、原理主義者と他者(他教派や他宗教)との対話は困難です。もし、日本において、福音派と称する人が、日本基督教団やカトリック教会を口汚く罵っていたら、その人は自称「福音派」の原理主義者でしょう。教義や神学から原理主義と福音派を見分けるのは難しいのですが、この点からも見分けることができます。もう1つの見分けは、前述のとおり、他者や社会と関わって生きてゆく姿勢です。そもそも、生きてゆく姿勢が違うのです。なお、同じ教団、同じ教会に穏健な福音派と原理主義に近い人が混在していることもありますし、リベラルとされる教派に福音派的な信仰を持つ人がいることもあります。その人が所属する教派や教会の名前だけで、その人はこうだとレッテル貼りはできません。

6信仰の本質について:原理主義者らは、福音の喜びでつながっているというより、ここを離れたら地獄に落ちるという恐怖心でつながっているように思えます。規則や禁止事項が多く、「義人はいない、一人もいない」、「死後さばきにあう」、「信じない者は罪に定められる」、「罪から来る報酬は死である」、「地獄の火は永遠」といった言葉が好きで、こうした言葉を引用しながら人を脅します。それに対し、福音派の人たちは、「愛は寛容であり情け深い」という言葉の実践者に思えます。

7対立について:原理主義者は他者と激しく対立し、攻撃的ですが、福音派は穏健です。穏健だけれど、言うべきことは言い、すべきことはします。そこが違います。福音派の人がリベラル派の人と結婚したとか、仕事で引っ越して来たら近くに福音派の教会がないとか、そういうときは、リベラル派の教会にだって進んで行き、とどまるのです。

私自身は福音派ではないけれど、福音派の牧師先生や信者の方々から親切にしていただいてきました。私は、福音派の、「他者に対して愛を持って接する」生き方が好きです。私は多くを知り過ぎてしまい、もう、自分自身は福音派の世界に入っていけません。でも、好きなものは好きですから、自分が好きなものを悪く言われると悲しくなります。

原理主義者らが憎くて上記を書いたわけではありません。彼らは「信仰熱心」ですが、その熱心さの方向が違っているから、目を覚ましてほしくて言うのです。

日本基督教団のある牧師が次のように言っていました。

「偽りの宗教を見分けるコツは、金銭、異性、教祖です。インチキ宗教は必ずと言っていいくらい、経理が不明朗で、異性と問題をおこしたり、教祖がいたりします。教祖と名乗らなくても、実質的に教祖にあたる人物がいたりします。そうした団体がキリスト教と称することもあるので、注意が必要です」

もう1つ付け加えれば、経典の書き換え(改竄)や書き加えがあります。勝手にキリスト教を自称するインチキ宗教の場合だと、聖書が改竄されていたりします。教祖的な「先生」がいて、この「先生」が聖書を翻訳したとか、解釈したとか主張し、聖書に反することを言い出すのです。いったいどう訳せばそんな訳になるのか、使われている単語も文法も無視した「翻訳」や「解釈」があらわれ、批判に対して、「わかりやすく意訳している」「正しく意味を伝えている」と言い返すのです。

やはり、と言うべきか、そういう自称キリスト教の団体は、経理が不明朗であったり、パワハラやセクハラが横行したり、場合によっては悪質な性犯罪や性犯罪の隠蔽がおきたりするのです。

残念なことですが、「福音派」と称する人や、「福音派」と称する「教会」に、インチキ宗教と言われても仕方がないような原理主義者やカルトが存在します。

穏健な福音派と、原理主義的な自称「福音派」を混同してほしくないと思います。

補足

中間的な状態というのがあり、福音派か原理主義者かはっきり分けられないこともあります。宗教には(もちろん宗教以外にも)しばしば中間的な状態がみられることがあります。

先日、ある人から「カトリック新聞」という新聞をもらいました。ふと見たら、広告欄にいのちのことば社という福音派の出版社の広告が載っていました(日本基督教団出版局も載ってました)。福音派は、カトリックの新聞にも広告を載せます。原理主義者は絶対にしません。自分たちは真理の側におり、カトリックはサタンの側にいるのですから。カトリックと対話の姿勢があるかどうかも、福音派か原理主義者かを見分けるコツの一つでしょう。

(伊藤一滴)

2016-12-22記 一部の表記を訂正の上、再掲

義人はいない? 一人もいない?(再掲)

「義人はいない、一人もいない」(ロマ3:10)というのは有名な聖書の言葉です。
特に自称「福音派」の人たちが好んでこの言葉を引用します。

「『義人はいない、一人もいない』と聖書に書いてあるとおり、すべての人は滅ぶべき罪人(つみびと)です。しかし、イエス様の十字架の贖いにより、イエス様を信じる人だけは、罪を赦されて天国に行くことができます。それ以外の人はみな永遠の地獄で永遠に焼かれるのです」
といった感じです。

要するに、自称「福音派」の脅し文句の定番に使われる箇所の1つです。


パウロは、七十人訳ギリシャ語聖書の詩篇から引用して「義人はいない、一人もいない」と書きました。私はヘブライ語の知識がないのでヘブライ語原典を参照してはいませんが、ヘブライ語から日本語や英語に翻訳された旧約聖書を見ると、どうもパウロの引用とニュアンスが違うようです。パウロの頭の中にあった「聖書」とは、ヘブライ語ではなく、ニュアンスの異なる七十人訳だったのでしょう。


パウロがローマ書に書いた「義人」の原語はギリシャ語の δίκαιος です。
(日本語に訳すと「義人」と名詞のようになりますが、δίκαιος は形容詞です。)


本当に義人(δίκαιος)は一人もいないのでしょうか?
聖書の著者はみな一致して「義人はいない」と言っているのでしょうか?

聖書に使われている単語を検索するコンコルダンスという便利なものがあります。コンコルダンスで δίκαιος という語を調べると、この単語は福音書や使徒行伝にも出てくることがわかります。


福音書と使徒行伝で δίκαιος という語が使われている箇所をギリシャ語新約聖書から訳して引用するとこうなります。

「さて、彼女の夫ヨセフは義人で、そして彼女を公にさらすことを望まず、秘かに去らせようとした」(マタイ1:19)

「そして見よ、エルサレムにシメオンという名の人がいた。そしてこの人は義人で、敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望んでおり、そして聖霊が彼の上にあった」(ルカ2:25)

「まことにこの人は義人であった」(ルカ23:47)

「そして見よ、ヨセフという名の人がいた。議員の人で、善良で、義人であった」(ルカ23:50)

「すると彼らは言った、『百人隊長のコルネリオは義人で神を畏れる人だとユダヤの全国民から証しされていますが、~』」(使徒10:22)


義人はいない? 一人もいない?

何人もいるじゃないですか。
まあ、ルカ23:47の「この人」はイエスのことだからこれは別としても、他に何人もいます。

福音書と使徒行伝によれば、
イエスの他に、
マリアの夫ヨセフ、
エルサレムのシメオン、
議員のヨセフ、
百人隊長コルネリオも、
みな義人です。

「義人はいない、一人もいない」との整合性はどうなるんでしょう?

同じ δίκαιος を、パウロの書簡では「義人」と訳し、福音書や使徒行伝では「正しい」人と訳して別な語のように見せる翻訳上の細工はどうなんでしょうね。訳語を統一すると、何か不都合が生じるんでしょうか。


マタイもルカも、「義人はいない、一人もいない」なんて思っていなかったのでしょう。

義人についての聖書の証言は一致していません。

マタイとルカにはそれぞれの考えがあってそれぞれに福音書を書いたのでしょうが、「義人の存在を否定していない」(つまり、「義人はいない」なんて思っていない)という点では両者は一致しています。


「聖書の教えに従えば、義人は一人もいません」なんて言えないんです!

たとえパウロがそう言っても、別な箇所に義人が何人も出てくるのですから!

聖書の記述には、出来事の不一致、引用の不一致だけでなく、それぞれの著者の考え方に食い違いが見られます。中には、かなり大きな食い違いもあります。

聖書に見られる種々の見解の中から一部の言葉を引っ張り出して人を脅す人たちがいますが、別な箇所には別なことが書いてあります。

国法の頂点に憲法があるように、キリスト教にとっての聖書の頂点はイエスの教えです。パウロの見解から見てどうかとか、カルヴァンの著書にこう書いてあるとか、そういったことが聖書の頂点ではありません。まして、特定教派の牧師の見解が頂点にはなりません。
イエスが人々に伝えようとしたメッセージに合致しない脅しの解釈は、人間が作りだした脅しです。

パウロは、「義人はいない、一人もいない」という言葉で人々を脅す意図などなく、自分を省みて、あるべき信仰の姿勢としてそう言ったのでしょう。

聖書の一部を引用して恐怖心を与えて人を脅すのは、イエスに従う者にふさわしいこととは思えません。

「『義人はいない、一人もいない』と聖書に書いてあるとおり、すべての人は滅ぶべき罪人(つみびと)です。十字架の贖いを信じない人はみな地獄で永遠に焼かれるのです」と脅されたら、「義人はいますよ、何人もいますよ、聖書に書いてあるのを知らないんですか?」って、言い返してやりましょう。

(伊藤一滴)


付記

天下の田川建三先生でさえ、δίκαιος の訳語を統一していません。何かお考えがあってのことなのか、それとも単に不注意で不統一になったのか、わかりませんが。

永井直治先生の『新契約聖書』は、漢字の「義」を使って統一し、たとえば「義しき人」のように訳しておられます。さすが、永井先生。可能な限り訳語を統一なさったようです。(永井直治訳『新契約聖書』は電子化されてインターネット上に公開されており、無料で読めます。ただし、永井訳はステファヌス第三版からの訳ですから、ネストレとは読みの異なる箇所があります。)

数種の英訳を見ましたが、英訳は、just(名、形)または righteous(形)という訳語が多いようです。比較的原典に忠実と言われるNRSVも、righteous の他に innocent や upright が使われていて不統一です。
福音派のNIV(新国際版)が righteous で統一してました。やりますね、福音派。

英語だと、主語+be動詞+形容詞にできますが、日本語の場合、文脈によっては形容詞を名詞のように訳したほうが自然な文になることがあります。ロマ3:10は以前から「義人」と訳されているのでこれに合わせました。「夫ヨセフは義(ただ)しく、」「この人(シメオン)は義しく、」といった訳も可能です。ロマ3:10も、「義しい存在はない、一人もない」のように形容詞を形容詞として訳すこともできるのでしょうが、従来どおり「義人」とした方が自然なので、そうしました。

2021-11-08 記 再掲